1 咲舞の対照性と同質性

しかしまずは咲舞からはじめなければならないだろう。というのも満薫は咲舞の裏として登場していると思われるからだ。
咲舞は対照的である。先代のなぎほのも対照的だったが、それぞれ位相が異なると思われる。なぎほのは情と理で対照を成していた。無印第1話や第5話や第8話を筆頭に、情と理の対照性はエピソードの中核を成していた。
要素としては、咲舞も情と理に分けることはできる。しかし咲舞の対照軸は情と理ではない。S☆S第1話から舞は情をしっかりと持っている。たしかに勉強は咲よりだいぶできるようだが、それを彼女のアイデンティティとはしていない。絵を描くことが好きで、集中しすぎて周囲が見えなくなるという舞の要素は、内気であるという性質を強調しているものと思われる。ちなみにほのかは全然内気ではなかった。というように内気な性格として舞を定義すると、咲は開けっぴろげであると言える…… のか。
なぎほのと比較すると、咲舞については対照性よりも同質性も重要であるように思える。ひとつは咲舞がふたりともものすごく素直であることだ。そしてもうひとつ、咲舞は自分のことよりも相手のことを考えて行動する。

満薫について〜S☆S第18話終了時点

ほぼプリS☆Sという表題に偽りありの最近です。思うにようやく満薫に動きが見え始めたこともあり書いてみる。ていうかプリキュアという番組はどうして物語の駆動力を敵方に見出してしまうのか。まあ、小さいお友だちがわからないことを敵方に背負わせているというのが大きいのだろう。これまでと異なる点は、ドロドロンさんのおかげで敵方についても小友置き去りにしていないということだな。

私のことは私が決める〜無印第8話(再)

ほぼプリをはじめるきっかけがこの無印第8話だった。もう2年経つのね。id:dokoiko:200403あたりが無印第8話なのだけれど、読み返してみると第8話の個別感想は書いていなかった。今回も書かない。

私のことは私が決める

id:dokoiko:20060517の図で整理したのは、この番組が一貫して対立を物語の駆動装置として使用していることだった。これは先代の二年間をずっと対立で通してきたという時間軸だけでなく、なぎほのの日常から光と闇との戦いに至るまで物語世界がずっと対立で貫かれていた事にも言える。
そしてこの話数は一発ネタなのだがそれでも「ふたりはプリキュア」の骨格は全くはずしていない。ほのかの親切を否定するとき、なぎさは自分のことは自分で決めると言う。それはそのまま、プリキュアたちがドツクゾーンに立ち向かう理由である。

 第8話への伏線

みんな当時は第8話第8話言うてたわけだが、実は第7話もそうとうハイレベルな構成と演出だ。第7話と第8話は前後編であり、起承と転結という流れとして整理することもできるし、ネガとポジとして整理することもできる。

反転された構成

第7話の構成は、ギャグの中にシリアスを紛れさせている。教頭先生が全編に渡り出てきて、なぎさ達にわめいたり校長先生に媚を売ったり、果てはザケンナー化するけれど実は努力家であることが暴露されたり。第8話はシリアスの中にギャグが入っているわけだ。
また、第7話ってなぎさが悩むお話だったということにようやく気が付いた。ほのかはなぎさの試合を壊さないため、ひとりでゲキドラーゴに立ち向かう。第7話はほのかが積極的になぎさに働きかけており、ほのかの幸福感がメインテーマになっている。第8話はそれがまったく反転するわけで、なぎさが能動的にほのかへ働きかける立場になる。

固まりかける友情

美墨さんを応援するためにわざわざやってくるほのか。美墨さんを自慢するために幼なじみの藤Pをわざわざ呼びつけるほのか。友達という言葉に「友達って言えば友達なんだけど、不思議な仲ってやつかしら」と答え、美墨さんとの関係をそう整理することでますますうれしくなるほのか。美墨さんの試合を壊さないためひとりで(変身できないことは分かっているのに)戦おうとするほのか。美墨さんの復活を心から喜ぶほのか。
雪城さんをスタンドに見つけてうれしくなるなぎさ。雪城さんのピンチに試合を捨てて駆けつけるなぎさ。
しかし、ふたりの関係が危ういことは暗示的に明らかである。ほのかののめり込みが深すぎて、なぎさの躊躇と釣り合いが取れていない。

第7話あってこその第8話

第7話はひとまずハッピーエンドであるが、全体を通した印象として言えばお話は全く終わっていない。第7話の詰め込み具合も第8話に劣らずすごい。そしてこういう不安定なテンションを維持するお話を書くのはすごく難しい。第8話のように見事に起承転結するお話に劣らず。いや、第7話のようなお話を書く機会はなかなか無い。だから経験に頼れないという意味においては、第7話のほうが難しいと思う。だからこそ第7話を川崎良氏が書いたのだろう。

ていうか

第7話のほのか、エロかわいい。

 3 プリキュアっぽさとは

大塚さんの記述を(第15話分に限らず)読んで感じるのは、演出さん、監督さん、作画監督さんたちがものすごく力をいれて「プリキュアっぽさ」を作り上げているのだなあということだ。今回の脚本は、プリキュア初登板の山下憲一さんが書いている。大塚さんやプロデューサーさんなどによる強調、変更の記述を見るに、山下さんはけっこうまじめな方らしい。というか初回登板であまりはっちゃけるわけにもいかないだろうけれど。
たとえば脚本では、咲と沙織さんが台所で手を合わせるシーンはもっと説明的だったようだ。ドロドロンはもっとまじめに登場したようだし、プリキュアたちが燃える理由も、よりまじめな理由だったようだ。
しかし放映されたものを見ると、おそらく脚本版よりも放映版のほうがより「プリキュアっぽい」だろうと思われる。プリキュアは先代からずっと、愛と勇気と根性を中心に描いてきた。またドロドロンを見て思い出すのはゲキドラーゴやウラガノスであり、だからドロドロンは放映版ぐらいバカっぽくなければプリキュアっぽくない。というかS☆Sはすでにカレッちとモエルンバだ。
そんな感じで製作者のみなさんがずっとがんばって、プリキュアっぽさというのが作られているのだろうなと思うのだった(もちろん脚本の人たちも含めて)。

 2 ドロドロンのバカっぽさ

大塚さんの意図は「ドロドロンは一生懸命だけど、少し頭が弱い感じ」ということだ。とは言ってもAパートのことになるが、ドロドロンはとにかく正面からしか描かれない。これがなんだかバカっぽい。たとえば犬を真正面から見るとバカっぽいのと同じ感じかな。
Bパートのドロドロンは脚本ではもっと普通っぽかったようで、大塚さんがバカっぽく再構成したらしい。しかし絵としてはAパートに比べるとかなりシリアスな構図で描かれている。だが絵としてのシリアスさと状況としてのバカっぽさの落差が大きいことで、ドロドロンのバカっぽさがシュールなバカっぽさになっていて結果的により面白いモノとなっている。