使徒たちが体験したキリスト受難及び復活〜映画版マックスハート2論考(4)

今週はWindwosクラスタ構築、その他構築及び撤去、災害復旧計画作成、SOP作成、業務移管計画など、案件を13ぐらいかかえることになったのだった。みちたろさんが更に論考したようなのだが、対戦なのでまだ読んでない。今日の映画オフでみちたろさんも来るので、それまでに一応考慮中のネタ概要でも書いておかないとなんかくやしい。
5時に起きて大急ぎで生きるための諸々を片付けていたのだが、まだ洗濯終わらんし(ただ今映画オフ当日8時20分。9時15分集合なのに…)
「雪空のともだち」における神話的普遍性についてはちょっとあとで書くとして、山場のあのシーンについて最も近い物語を探すとしたら、それはキリストの受難と復活の物語だろう。それにひきつけて解釈すると、みちたろさんのhttp://www.ymg.urban.ne.jp/home/mi1/p01.html12月12日(月)からリンクのある論考では、主にキリストが受難の最に見せた愛を見据えて記述が行われているように思える。正確ではないが「主よ、彼らを救いたまえ。彼らはいまだその為したることを知らざるなり」と、使徒たちがキリストを見捨てて逃げ出したことを赦しているところである。死を迎えようとするキリストが見せた愛の行為に焦点を当てて「雪空のともだち」のあのシーンを解釈すると、だから目覚めることができたのだと論考が進むだろう。
しかし僕は闇の側の人間なので、ここでは遠藤周作『キリストの誕生』に描かれた使徒たちの物語を参照しながら「だから復活することができたのだろう」という結論に持っていきたいと思う。いやまじで、あの物語を作った中の誰かがキリストの受難と復活を「雪空のともだち」映画版に仕込んだとしか思えないのだ。
しかし「雪空のともだち」のなかに神はいない。あくまでも人間の物語である。なぎさとほのかのふたりが織り成す人間の関係の物語であり、ひかりと○○○の超越的存在同士の関係の物語である。超越者を想定して物語を作ることは、現在ではあまりリアリティを持たない。あくまでも「立場としては対等な対存在の関係」というプリキュア的世界観を守りつつ、その極限を掘り当てたことには見事というしかない。
(ということで詳論は明日更新ということで。)