使徒たちが体験したキリスト受難及び復活〜映画版マックスハート2論考(4)の(2)

昨日の続きです。「雪空のともだち」映画版を論じるための前提として以下の記述が存在します。よってキリスト教についてコメントをいただいても返答できかねます。というか、遠藤氏の文学的解釈をまとめるのが以下の目的なので、そのへんよろしく御願いします。

原罪〜遠藤氏におけるキリスト教の成立

遠藤周作『キリストの誕生』で描かれているのは、保身のためにイエスを見捨てた弟子たちの行く末である。ユダがイエスを渡したことではない。イエスが捕らえられた時に雲散霧消して死を恐れた弟子たちのことである。第一の弟子ペトロが「イエス否認」をしてしまったことである。
遠藤氏はイエス否認の記述を、イエスの弟子たちが集団として犯した過ちを象徴的に描いたものだとする。ペトロは第一の弟子であり、イエスグループのリーダーである。リーダーがイエス否認をしたということは、その他弟子たちの行動もペトロという個人に集約していると解釈する。さらにペトロが神殿に忍び込む事ができたことは、ユダヤ衆議会にペトロがイエスグループの代表者として出向き、イエスひとりを差し出す取引を行い、イエスをいけにえとしてグループの安全を手にしたのだろうと氏は推測する。
自分たちに地上の栄光をもたらすと考えていたイエスは無力だった。なんの業も見せることなくただ捕らえられていた。無力な師に従っていれば、自分たちも捉えられ処罰される。命をかけて従ったところで、この無力なイエスは地上の栄光を与えてくれないのだ。だから弟子たちはイエスを見限った。衆議会と取引し、すべての罪をイエスに押し付けた。
エス処刑の日、彼らはイエスの言葉を恐れた。処刑場で心情を吐露し、呪いの言葉を吐き、また祈ることが当時の常識だったそうだ。イエスを売った彼ら弟子たちに向け、イエスが何を語るかを恐れた。イエスは死を迎えるまで無力な人のままだった。しかし師は彼らを呪うどころか、彼らを赦し、彼らを神にとりなしながら死んでいったのだ。「父よ、彼等を許し給え。彼等、その為すところを知らざればなり」またイエスは、自らに沈黙を続ける神への信仰を最後に至りなお捨てなかった。「主よ、主よ、なんぞ、我を見捨て給うや」は詩篇二十二篇であるが、これはイエスが十字架の上で詩篇を唱えつづけたことを指している。詩篇はこれ以降続くにつれ神への帰依を表現し、三十三編の賛美、三十四編の感謝へと続く。
エスは十字架上に縛られた自身の運命を悲しんでいるかもしれないが、神への信頼は最後まで崩れることが無かったわけだ。というより「主よ、主よ、なんぞ、我を見捨て給うや」というのはこのときイエスを見捨てて隠れていた弟子たちの思いだろう。「主よ、主よ、なんぞ、彼を見捨て給うや」
エスのこの姿を知り、弟子たちはイエスの無力さが単なる無力さではないことに気が付いたのだ。いや、最後の瞬間まで彼らを見捨てることの無かったイエスの姿を通して、自分たちの弱さを知らされたのだ。彼らの師へ彼らが死を与えたのだ。そして彼らが生きるため、師は何も言わず死を受けたのだ。師は彼の無力さにより、彼らを救ったのだ。
しかし彼らは追捕を恐れ、イエスが語った理想から離れていた。死を恐れ、ユダヤの権威に服従を続けた。そして2年後、そんな状況に異議を唱えイエスの教えを広めたステファノが死を迎える。ステファノの最後は、イエスの最後と同じ物語となっている。それはペトログループが、またしても保身のためステファノを見捨てたことを意味する、と遠藤氏は推論する。彼らは二度、わが身のため師を殺したも同然だった。
この経験、師を二度殺したことがペトロのグループを変えた。彼らはユダヤ教から決別した。彼らの師が彼らの罪を背負い死に、そして復活することを信じる集団へと変質した。イエスの教えを広める集団ではなく、彼らが犯した罪を許す人が復活するという希望を信じる集団へと変質した。
彼らの師は、事実上自らを殺した弟子たちの行為を知りながら、だが命を捨てて信じた。だから彼ら弟子たちも、その後は次々と殉教の試練を与えられても(いやだからこそ)命を捨ててもキリストを信じた。師を殺した(と後悔する)弟子たちがだからこそ師をキリストとして信じることになったという点が、この節で確認すべきことだ。
そんなわけで、映画版へ話は続く(以下出張所に記述中)。