4 形式拒否の自己運動

以上「ふたりはプリキュア」が絵の形式を拒否するためにあえて古い絵を選ぶというルネサンスの方法をつかったのだということを書いてきた。それは理念として製作者たちが狙ったことだろう。そしてそれは相当程度成功しているだろう。
で、絵の領域で現在アニメで通用しているお約束を破ったわけだが、そのお約束破りというのは絵以外のところにも波及しているのではないかと思う。女の子アニメにヒーロー物語を、という言葉が番組開始時についた割にはヒーロー性が少なかったりとか、では女の子番組的なヒロイン性を継承していたかというとそうでもない。何があったかというと「つながり」が全面的に出てきた。
ここまで「つながり」が全面的に出てきたというのは、良いこととして考えれば、それをおなかいっぱいたのしめるということだ。事実僕も楽しんでいる。しかしこれをある種の失敗と考えると「つながり」以外のものを描くことができなかったのではないか、と考えることもできる。たとえば「物語がさっぱり進まない」というプリキュア評は結構出ていた。
ここで物語というものを、要素の組み合わせであると考えると、その各要素はどれを見てもきっと今までのアニメの歴史の中ですでに使われているだろう。そうそう新しい要素を開発できるわけではない。新しい要素ですら、それまでの遺産を改変することで生み出されるものが多いだろう。要素の詰まった引出しをたくさん持っていれば、各要素を意外な形で組み合わせたり、古い要素を磨き直したりできる。はずだ。
古い絵を磨き直すという方法を「ふたりはプリキュア」は選んだのだろう。そうすることで、現在のアニメに付加されている特殊な意味を殺ぎ落とそうとしたのだろう。その過程で、アニメの現在を切り捨てるという「方法」が製作者の中に形成され、それがいつの時点かを皮切りに自己運動をはじめたということがあるのではないだろうか。
いまどきの絵を「ありきたりな絵」として切り捨てようとしたのと同じ衝動が「ありきたりなヒーロー」「ありきたりなヒロイン」「ありきたりな朝8時30分の物語」というように適用されたのではないか。絵以外のものについても既存の文法を「ありきたり」と感じてしまうようになっていったのではないか。
そうやっていろいろと既存の文法を殺ぎ落としていったところに「つながり」というものが残った。それはそれでかなり純度の高い「つながりの物語」になったように僕は思う。また小さなお友だちやアニメ文法を知らない大人が受け入れやすい番組になっているとも思う。
その一方、闇と光の物語が中だるみになっていたりなぎさとほのかが強くならなかったりドキドキが少なかったり、というプリキュア批評が出てくるような結果にもなったのだと思う。