1 ルネサンスとプリキュア

ふたりはプリキュア」の絵における普通っぽさの表現技法についてはひでさん(自己満喫。雑記 No.145)とえみさん(id:s-takee:20051028)におまかせしますです。
ひでさんが「古さを出した」という言葉を抜き出していて、同じことをえみさんは「昨今の流行のヲタ向け要素である、記号的表現ばっさり切り捨てた」と表現している。
絵描きさんでもある彼らの言葉を読むと、そういう古さを持ち込んだ「ふたりはプリキュア」の絵画表現は、最近のアニメ表現に比べ「彼女らがすぐ近くにいて、その柔らかな頬や髪に直に触れることが可能であるかのような」「何処にでも居そうな感じの女の子」になっているらしい。
これは歴史を振り返ると、まったく同じ運動が起きていることが分かる。ルネサンスである。美術史では11世紀から13世紀初頭にロマネスク、13世紀からはゴシックであり、13世紀からがルネサンスということになる。ロマネスク以前のビザンティン美術からロマネスク美術では、美術のほとんどはキリスト教と密接に結びついていた。特に絵画は文字が読めない大衆にキリスト教を広めるための手段として、教会と結びついて発展していた。仏教が仏像や仏画を育て利用したのとまったく同じことだ。たまにやってくるエホバの証人さんたちが持っているパンフレットに描いてある独特の絵もそれと同じ。キリスト教を広めるためだから、非キリスト教的な要素はどんどんと排除されていくことになる。これをよく言えば宗教的純化であり、悪く言えば生命力の喪失ということになる。表現は定型化し、記号化する。安定的なフォーマットと技法で描かれる絵画は、見るものを安心させる。だが純化とはまさに視覚的表現よりも言語的意味を重視するということであり、安心とは停滞と裏表である。順化が進むにつれて、絵画は絵を見るものではなく意味を読むものへと変質してゆく。細部の表現にこめられた意味が分かる人にはたいそう面白いが、分からない人には分からなくなってゆく。そしてその純化の運動は自己進化をはじめ、やがてごく小数の分かる人だけにしかわからない抽象的な意味そのものへと向かってゆく。ぶっちゃけ、ほとんどの人には見分けのつかない図のようなものになってゆくわけだ。