2 ほのかの両親の世界

ほのかの両親は第10話に登場した。それ以前にも出て来なかったし、それ以降にも出てこない。第10話でほのかの誕生日を「年に一度の楽しみ」と口にしたのでおそらくもう出てこないだろう。なぎさの両親では父である岳さんは二回出てきただけだが、美墨家と雪城家の両親を考えると一見対照的なのだがある視角をとると類似することがわかる。
まず対照的なところから見てみよう。美墨家の両親には仕事をしている雰囲気がない。母である理恵は専業主婦のように見える。常にエプロン姿であるということが専業主婦のシルシなのだろう。それは設定資料集を見れば分かる。設定資料集では別の名前になっている理恵さんの資料は1ページで、左半分には放映で着ているエプロン姿が描かれている。そして右にはボツになった姿が描かれていて、それはなんだか良く分からない多分女性看護士とか女性介護士が着ているような前の閉じた体中を包む一枚布というような服を着ている。僕はなぜかホームヘルパー資格を持っているのでそのあたりはちょっと詳しい。それで設定資料には「服こっちで」との指定が書かれている。やはり何をしたいのか分からない服ではリアリティがないということなのだろう。
親についてのリアリティを無くす(もしくは親そのものを消失する)というのがここ何十年かの物語のリアリティで、それを追求した「渡る世間は鬼ばかり」がドラマとしては昼ドラマを除いて唯一生き残っているぐらいだ。まあそれはリアルなドラマの話で、たとえばおジャ魔女どれみの仲間たちにはそれぞれ親がいる。しかし彼女たちの両親たちは全くのサラリーマンとか専業主婦のような専業主婦ではない。
そういう文脈で言うとほのかの両親である太郎と文は典型的なアニメ的両親である。やっていることもよくわからない横文字の仕事で、年に一度しか日本に戻らない。「ふたりはプリキュア」を見ているだろうほとんどの小さなお友だちにとっては何のリアリティもない無臭の両親だ。それに比べて美墨家の理恵さんと岳さんはごく普通のお父さんとお母さんとして描かれようとしている。それは理恵さんがごく普通のエプロンを着た専業主婦になったことに現れているし、岳さんが普段は常に親父ギャグを飛ばす権威も存在感もないごく普通のサラリーマン(研究者だから職種はちょっと違うが企業の研究者は存在としてはサラリーマンだ。僕は以前研究施設のIT担当だったこともあるからちょっと詳しい)であるということもそうだ。
というのが美墨家と雪城家の違いだ。それは彼らの立場が違うということで、彼らだけを見たときの相違だ。しかし彼らとなぎさほのかとの親子関係を見てみると、立場の相違とはうらはらに彼らは非常に近い位置にある。美墨家、雪城家のどちらの親たちも、自分の子供の気持ちを読み取ろうとしないということだ。子供に寄り添おうとしないとか、子供に媚を売らないという言葉を使ってもいいと思う。
墨家の理恵さんは一方的に「お母さん、なぎさたちを心配しなかったことなんて一度もありません」と宣言する(第6話)。またお小遣い前借りを請うなぎさを「ダメ」と一蹴する(第10話)。また亮太を水族館に連れて行くことに納得しないなぎさに向かい「なぎさ、たまにはお姉さんらしいことしたらどうなの」「どうせ遊びでしょ」「文句言わないの」と取り付く島もない(第11話)。岳さんは第15話でオヤジギャグを飛ばしまくるのが彼の日常であることが家族の反応で明らかにされていたし、響島でなぎさを一方的に叱り、お風呂後の旅館の廊下で一方的に和解する。
雪城家の太郎さんと文さんは一心同体というかふたりでひとりなのでまとめて論じる以外にないと思うのでまとめるのだが、彼らは一方的にほのかの誕生日を祝うために海外から帰ってきて、とにかく大量のお土産を持ってやって来る。そして一方的にほのかを連れ出し、また嵐のように海外へと帰っていく。
なぎさとほのかの両親は彼女たちの事情をまったく汲み取ろうとしないという点で一致している。

 3 学園生たちの世界

かなり長くなってきたので、ユリコ、京子と夏子、小田島友華についてまとめて論じる。彼女たちは柏田真由と同じく、ほのかとなぎさの日常と交わることがないだろう。それは22日に書いた「彼女たち(注、ここでの彼女たちとは柏田真由と小田島友華のこと)となぎさほのかとの関係が魔人戦その場限りである。なぎさとほのかから見て真由と小田島のこの対照性をきれいに保つならば、先にも後にも平行線のように世界が交わらないという形式において真由と小田島は同一である必要がある」ということを彼女たち(ユリコ、京子と夏子、小田島友華)もきれいに踏襲しているということだ。

 4 それぞれの世界を生きる

ふたりはプリキュア」の物語を周辺の登場人物から眺めてみると、なぎさとほのかと周辺の登場人物は基本的に影響を及ぼしあっていないということに気が付く。かろうじてほのかと科学部員たちがほのか1号をユリコ1号に命名変更をしたということでユリコが感動したという事実はある。しかしその感動がユリコとほのかの間に今後何かをもたらすかというとあまりそういうことはないだろうと思う。基本的にユリコはほのかを崇めていたので、その思いが強くなるということはあるだろう。しかしユリコに何かを考えさせるような手触りのある違和感となるかというとそういう種類の出来事ではない。ユリコは今まで通りほのか様状態の自分を見つめなおすことはないだろう。見つめなおせばよいかという問題はあるのだけれど、ほのかべったりで自分を卑下するかのようなユリコの現在がユリコの今後をよりよくするかというとそうでもないだろうと僕は思う。そしてユリコとの科学部発表会でほのかが何か精神的に成長したかというとそういうわけでもないだろう。そういえば志穂莉奈となぎさとの関係に焦点を当てた話も出ていない。
そういうわけでなぎさとほのかとの圧倒的に濃密な関係構築が突出して描写され、周辺の登場人物との関係は両親ですら一方的であり、学園生に至っては断絶しているといってもいいだろう。ありがちな「みんな仲良く思いやり」というスローガンなんか全く意に介さない展開だ。しかし現実のリアルな生活では、「ふたりはプリキュア」に描かれるような限られた小数との濃密な関係構築とその他多数との断絶という構図こそがリアルな人間関係だ。
いままでの「友情出演一度だけ」が定型となるほど繰り返されているというのは、なぎさとほのかがプリキュアだからといってみんなが仲良くなるわけではないし、それどころかみんなと関係を構築できるわけでもないということを表現しているのだろう。