プリキュアと百合とプリンセスチュチュとギャル文字(2)

昨日はすっかりプリキュアのことを忘れていた。ということで本日はid:dokoiko:20060507のAsk John翻訳「プリキュアレズビアン物になるでしょうか。」およびid:dokoiko:20060514がここからの基礎になります。

アニメ番組の三次元分類

さて14日の「日常性と次元(1)」において、以下のように書いた。

ここでいまのところ失敗だろうと思われるのは、二次元の分類があいまいになっているということだ。語られる物語内容としての「日常と非日常」、世界観としての「SF/FantasyとNon-SF/Fantasy」、作画としての「オタク絵/非オタク絵」がワンセット状態になっているが、これは解体したほうがよいかもしれない。

ということで物語内容、世界観、作画という三軸を使ってアニメ番組の種類を8つに分類してみる。ここで「日常物語−非日常物語」と「SF/Fantasy−Non SF/Fantasy」とをどういう基準で分けたかを書いておいたほうがいいかもしれない。現実世界の日常と同じような題材を選びながらも、宇宙人が登場したり、特殊な力が使えたり、爆発しても死ななかったりする場合はSF/Fantasyである。非日常であるがNon-SF/Fantasyというのは、必殺技が出てこないスポーツ中心ものであったり、Seek and Findの旅モノであったりという感じだ。

日常物語 非日常物語
SF/Fantasy うる星やつら
マイメロ
どれみ(変身パート)
ロボットモノ
プリキュア(戦闘パート)
Non-SF/Fantasy プリキュア(日常パート)
どれみ(非変身パート)
ちびまる子
はじめの一歩
世界名作劇場のへん
ひとまずプリキュアをプロットしてみたのが下記である。

三軸分析(プリキュア)

私が思うにプリキュアはあまり多くないタイプのアニメである。それは、日常パートと戦闘パートにおける乖離の幅にある。プリキュアにおいては
日常パート:日常物語かつNon-SF/Fantasyかつ非オタク絵
戦闘パート:非日常物語かつSF/Fantasyかつ非オタク絵
という分類に属していると思われる。いやそんなのたくさんあるじゃないかと反論されそうだ。しかしたとえばうる星やつらは普段からラムという異界の存在が主人公のひとりとして存在しているし、あたるが電撃を食らったり面堂があんなだったりする。
クリィミーマミ魔法少女モノとしてプリキュアとかなり近い位相にあると思う。しかしマミがああいう容姿であること、学校シーンがほとんど出てこないこと、実家がクレープ屋であること、マミとしても通常世界に属していることなどから、乖離していると言うよりもふたつの人生をひとつの世界で生きているという連続性が強調されている。

愛から性的連想という付属物を取り除くような仕掛けに満ちているプリキュア

そんなわけでプリキュアに話を持ってくる。Ask Johnのジョン氏は、なぎほのが本編で性的意味を含む愛情関係に入ることはないだろうと考えている。それは「らんまとあかねは決してくっつくことはない。犬夜叉とかごめ、あたるとラム、スパイクとフェイ、ベルダンディーと螢一、リナとガウリイもそうなることはない」のと同じで、それが視聴者に明白でありながら関係が”成就”しないもどかしさが、番組の大きな駆動力であるからだと指摘している。
この説はこの説として説得力がある。しかしなぎほの関係に限らず、プリキュアという番組においては、性的意味を加えた形で理解されてしまうような描写がほとんど無い。唯一そういう文脈が可能であったのは、初期設定で憧れの王子様として登場した藤Pだった。しかしじっさいのところ藤Pは無印第8話のダシであったし、それ以降はなぎほの夫婦漫才のきっかけであったし、MH終盤に至ってはなぎさが悟りを開くための人柱となっていた。われわれは藤Pへのなぎさの想いが絶対に成就しないことを織り込んで、なぎさのボケネタ(といくつかの精神的成長ネタ)を期待して藤Pシーンを見ていたはずだ。だいたい藤P本人が天然系の君子だし。
これ以外になると、ほのかは聖人君子であるし、志穂莉奈は熟年夫婦であるし、聖子は悟って唯は尻切れだった。誰一人としてお付き合いしている人は出てこない。あかねさんは九条ひかりの親としての属性が強すぎるので、ひかりを放って恋人を作ることはありえないとみなすのが普通だろう。
愛の恋だの、という即物的なものだけではない。背景描写の泥臭さや古風な人物作画は同人系から敢えて距離を取るかのようであった(無印中期からはおそらくアニメーター個々の手癖をあまり抑えないようになったのだと思う)。そして九条ひかりに至っては「おしん」である。
性的意味を想起させてしまうようなものが「ふたりはプリキュア」においては、ほとんど検閲に近いぐらい注意深く取り除かれている。どうしてこんなに性的意味を排除するのだろうと考えてみると、たぶん「ふたりはプリキュア」を通じて製作者たちが描こうとしていたものが、ある人間と人間が持ちえる究極的な信頼や絆、つまり人間愛であったから、そしてそこから人間愛を突き詰めることで世界への愛に至るという道筋であったからだろう。
誰かを個別的に信頼し愛する過程を描こうとすると、それはやはりかなりのところ「恋愛」と近いものになる。しかし何の仕掛けもせず恋愛に近いものを描いていくと、そこに性的意味を付加することになってしまう。性的意味を付加してしまうと、そこでお話が「ただの恋愛モノ」へと変質してしまう。
つまり、なぎさとほのかを一対一で結びつけて人間愛を描こうとするとき、このふたりの関係を「ただの恋愛」と見えないようにするには、物語全体から性的意味をほとんど駆逐するぐらいにしなければならなかったのだろう。

だが、それが逆説的に(ある種の人々に対して)性的連想を促進したのではないか

人間、隠されれば隠されるほど見たくなるもので、否定されれば否定されるほど愛の炎は燃え上がるわけで、さらになぎさとほのかが「女の子同士の友情関係へと偽装され、消臭された(性的意味のみをを除いた)男女恋愛関係」であることは明らかであるのだから、なぎほの百合で大ムーブメントが巻き起こったのだろうと思われる。