ジョンに聞け

Ask Johnのプリキュア評(http://www.animenation.net/news/askjohn.php?id=1036)を翻訳してみる。かなり好意的。ジョンはプリキュアをちゃんと見てると思います。
追記:とりあえず完訳。ジョンはアニメオタクでありつつアニメオタクが陥りがちな「作画」偏重や作家主義をとらないところが、僕には合っているなとおもう。というか西洋魔法少女アニメオタクの間では、セーラームーンの力はものすごいということなのか(それとも自身でちょっと弁解しているようにジョンの独断なのか)。

プリキュアについて意見を聞かせてください。

質問:プリキュアについてどうですか。無印と比べてマックスハートの内容は同じですか、向上してますか。なぜプリキュアは西洋オタク界で毀誉褒貶が激しいのですか。またアメリカで放映されると思いますか。
私にとって魔法少女アニメというジャンルでこれは、と思うものがこれまでほとんど無かったのですが、プリキュアには強く惹かれるものがあります。私はこの魔法少女アニメが心から大好きです。プリキュアはアクションシーン満載です。またこのジャンルにつき物のお約束はほとんど無いように思われます。一例ではありますが、これまでお決まりのようなもの(魔法のブローチとか小物、変身の呪文や武器など)はほとんど頼らないようになっています。主題歌もお決まりではなく、私は主題歌も大好きです。
私の感じでは、4-KIDSあたりが近々北アメリカ向け放送の契約を結ぶことになっても、私は驚かないでしょう。もちろん放映前のチェックと編集を行ってからということですが。

回答:、僕はプリキュアを最初から楽しく見ていました。しかしぶっちゃけ白状してしまうと、初期にはいわゆる典型的な魔法少女モノに見えていたので視聴を止めるところでした。ところがプリキュアを見つづけていくほどに、僕はプリキュアを素晴らしいと思うようになっていくのでした。実際のところ、僕がプリキュアに深くハマってしまうにはあまり長く懸かりませんでした。現在僕は、無印プリキュアの全49話とMHシリーズの第1話を見たところです。現在西洋のアマチュアアニメファンによって、たくさんのTVアニメシリーズが英訳されている状況を考えると、僕がおそらく多数の人々よりも驚いているのは、プリキュアがいまだにマイナーであり、なおかつ英語圏アニメファン達の評価が驚くほど低いことなのです。
ふたりはプリキュア」は西尾大介氏が始めて手がけた魔法少女モノアニメで、彼はこの直前までマーシャルアーツアニメシリーズの「エアマスター」や「ドラゴンボール」を手がけている。実際「エアマスター」や「ドラゴンボール」の影響をプリキュアに発券するのは、難しいことではない。美墨なぎさ雪城ほのかキュアブラックキュアホワイトというスーパーヒロインに変身するのだが、彼女たちが見せる肉弾戦重視の戦闘は「エアマスター」において相川摩季が見せるマーシャルアーツのスタイルを感じさせる。彼女たち〜正しくは伝説の戦士プリキュアと言う存在〜は、確かに魔法による攻撃も行う。しかし典型的な魔法少女モノとは異なり、プリキュアは魔法や魔法アイテムではなく直接的なパンチやキックに頼る。無印第23話の開始時において「最強の敵」イルクーボが詳しく紹介され、話が進むにつれドラゴンボールZの影響が顕著になってゆく。プリキュアたちの戦闘は更に肉弾戦へと傾斜してゆき、イルクーボの造形や振る舞いがドラゴンボールZに酷似してゆく。パワーアップ描写やオーラによる戦い、敵であるのにおたがいを戦士として認め合うことなど。だから奇妙なのであるが、セーラームーンドラゴンボールZがアメリカのアニメファンに人気があるに関わらず、両者の組み合わせとも言えるプリキュアは、まだアメリカのファン達の間でブレイクしていないのです。
ちょっとわき道に逸れてみると、プリキュアのいろいろなところに僕は楽しみと尊敬を感じている。プリキュアのキャラクタたちはすごい。メップルとミップル、そしてシリーズ途中から投入されたポルンのかわいらしい語り方に目が向いてしまうかもしれないが、彼らはとてもよく造形されており、視聴者に彼らの関係性を考えさせたり、彼らが感じる恐怖に共感させることができている。ほのかとなぎさも素晴らしく造形されたキャラクタであり、魅力があり、ちゃんと生きていて、造形も二次元的ではなく、おたがいを心から認め合っている。実際、日本のファンコミュニティではなぎさとほのかによる百合描写を好んでいる。番組そのものにおいても、彼女たちがおたがいを愛しているがそれに気が付いていないという描写を何度も繰り返している。プリキュアはとてもペースが速い。実際ほとんどの話数は飛ぶように進むのだが、ひとつをあげれば、私の記憶が正しければ50話のすべてで少なくとも一度の戦闘シーンが盛り込まれている。「ふたりはプリキュア」が戦闘シーンで素晴らしい仕事をしているのはもちろんなのだが、時に素晴らしく感動的なエピソードを提供して視聴者を驚かせる。例えば無印の第21話、第26話、第43話、そしてとんでもなく度肝を抜く第42話。
ふたりはプリキュア」は小さい女の子向けの番組である。しかし意識的に、話を分かりやすくしたり子供向けにしたりということをしていないように思われる。なおかつ感心なことに、お約束に流れることなく真摯に物語を構築しようとしている。驚くことになるのは、プリキュアたちはお話の中で常に勝利するわけではない。シリーズの中で何度か、キュアブラックキュアホワイトは彼女たちよりも強い敵に打ち負かされる。
またこのシリーズが子供向けでないことを感じさせる要素としては、シリーズの初期にプリキュアたちは彼女たちの敵を実際打ち負かして〜ある意味において殺して〜いるということだ。またシリーズの後半に彼女たちが敵に圧倒されてしまう時、魔法少女モノのお約束から全く外れるように、闇の敵たちはプリキュアたちを手ごわい敵として扱うのではなく、まるでたかってくるハエを追い払うかのようにプリキュアを邪魔者扱いするのだ。事実は異なっていたのだが。
彼女たちはありきたりのパワーアップはしない。彼女たちは敵をことごとく打ち破る、ということはない。彼女たちの敵は目指すべき目標に明確な優先順位を持っており、闇雲にヒーローであるプリキュアたちを追い掛け回して勝利しようなどとはしない。
見逃されやすいことであるが、「ふたりはプリキュア」は細部の描写や描写そのものの技術水準においても賞賛すべきものを示している。「ふたりはプリキュア」の戦闘シーンは一貫して、小さい女の子向けのアニメとしては高い水準を保っている。時に無印48話のように、戦闘シーンの描写水準はありえないほど滑らかで緻密なこともある。さらに言えば、賢明な視聴者ならば気が付くだろうことに「ふたりはプリキュア」では、必要なところでバンクシーケンスに描き足しをしているのだ。例えば変身バンクの始めになぎさとほのかは手をつなぐのだが、彼女たちがその直前に着ている服装に合わせてクローズアップの描写が毎話数ごとに描き分けられている。例えば、ある話でふたりが直前まで長袖を着ているのであれば、変身バンクのはじめにもちゃんとふたりは長袖で描写される。プリキュアの変身バンクそれ自体はすべての話数において同じなのだが、ほとんどの魔法少女アニメでは単に毎回同じバンクを挟むだけであり「ふたりはプリキュア」のように微調整をすることはない。最後に質問者のあなたが指摘するようにとてもキャッチーなオープニングテーマ「DANZEN! ふたりはプリキュア」は、アニメソング人気投票などで日本のファンたちに支持されている。
日本における「ふたりはプリキュア」の爆発的な人気を考えるに(日本では大ヒット作品となっている)、まず間違いなく近々アメリカ公開のためにライセンスされるだろうと僕は見ています。僕はAN Entertainmentがこの作品を放映することを期待しているのですが、この作品の人気のお陰で、アメリカでの配給もまた人気のある4Kids EntertainmentやFUNimationに限られるように思われます。または東映アニメーションが自身で配給するのではないでしょうか。
この作品がいまだにアメリカのアニメファンたちの熱烈な支持や興味を集めていない理由を、僕が根拠無しで考えてみると、アングラに集まるあまりに多くのファンたちやモグリのアニメ配信屋たちのどちらもが、一見するとただのかわいい魔法少女モノの「ふたりはプリキュア」を英訳したがらないからである。またはこの両者がセーラームーン依存症に罹っていて、彼らが自らの視点を他の魔法少女モノに向けて開くことができなくなっているからではないかと思います。
最後に、僕は日本語を多少かじったぐらいの32歳オヤジアニメファンであり、また「ふたりはプリキュア」にこれまでずっと感動しかつ楽しんでいます。「お前は日本語のまま50話すべてを見ることができたから、この作品を愛しているのだ」とあなたは言うことができるかもしれません。
一方、僕はこの作品がアメリカのアニメファンコミュニティで比較的話題に上らないままでいることがうれしくもあります。なぜならプリキュアを理解しているということが、僕をアメリカ人の中での選ばれた少数者であるかのように思わせてくれるからです。しかしまた一方では、この作品に対して僕が抱いている尊敬の念の結果として「ふたりはプリキュア」が英語圏のアニメファンたちにもっと知られて賞賛される光景を望んでいます。なぜなら僕はこの作品がもっと認知と賞賛を受けて然るべきだと思うからです。「ふたりはプリキュア」は「カウボーイビバップ」や「ベルセルク」ではないし、また「ヘルシング」や「妄想代理人」でもない。難解でもないし前衛でもないし知を標榜するものでもない。しかし純粋で洗練されたエンターテイメントという文脈において、「ふたりはプリキュア」はしっかりした、賞賛すべき、特別なアニメである。