3 ただしそれは仮の復活

ということでひとりきり(プリキュアはふたりでひとり)で戦うことの限界を認め、前衛として正義を代表することをやめたがゆえに、プリキュアであることを家族=世界に承認を受けたなぎさとほのかであった。そして自我境界が崩壊したふたりは、全ての人に魂の内側で出会って復活したわけだ。虹の園に生きる全ての命を体に宿して。
しかしこの一度目の復活は、黄泉の国(無意識の)にて行われた仮の復活である。全ての人のイメージとともにプリキュアが戦う。これはこの時点で二人を含めて全ての命がひとつに溶けているわけだ。
全ての人が背後に立ち現れるあのシーンは、イメージとしては死の間際で思い出が走馬灯のようによみがえったり、三途の川の彼岸に懐かしき人々が並んでいたり、そういうイメージであるように僕には感じられた。
もうひとつ、この復活は「ふたりはプリキュア」にてこれまでずっと描かれてきたメッセージとは全く異なる力によって成し遂げられているのだ。だから真の復活ではない。この時点でのプリキュアタチは強い。確かに強い。だが本来のプリキュアではない。
この復活でプリキュアたちが手に入れた力は、正義や強さ、世界という原理に裏打ちされた力、「少年の物語」にて描かれてきた力である。言うなればドラゴンボール型の力である。この強さがプリキュア的ではないということを最も確実に表現しているのがウリえもんさんだ。

かつて俺自身プリキュアのバトルについて、通り一辺倒だとか伏線のないパワーアップがダメだとかろくでもない(ホントろくでもないな)事を言っていたわけですが、それは少年誌のみで凝り固まった俺の偏った見方だったわけで。
なぎさやほのかが戦う理由というのは、強くなりたいからとか戦いが好きだからとかそういうサイヤ人的思考みたいなのでは全然無いんですよな。
そこに守りたいものがあるから戦う、ただそれだけ。
だからプリキュアの戦いはいつもがむしゃらで、いつもいきあたりばったり、だったのだ。
彼女たちは”強くありたい”などとは思っていない。
(「http://members10.tsukaeru.net/urya/nicky/nicky.html」の2006年01月31日(火))

この復活から二度目の「死」に至るまでのバトルは熱い。しかし技巧的過ぎるのだ。技に頼っている。身体的な力に頼っているのだ。さらにプリキュアたちは理屈が多い。プリキュアたちは技巧と力でジャアクキングバルデスの中の人)を押しながら言う。

ブラック「あんたは勘違いしてる。あんたが相手にしてるのは、私たちふたりだけじゃない」
ホワイト「あなたは全ての命を相手にしてるの。私たちにつながる全ての命を」
(最終回より)

まさに「こしゃくな!」というわけだ。彼女たちの中にはまだ「わたしたちが世界を守る」という意識がある。ということは、彼女たちはこの時点で、私と世界が別のものであるという前提に立っているということだ。プリキュアたちはよくやった。しかしこの強さは違うのだ。だから敵わない。
そしてプリキュアたちは二度目の(精神的な)死を迎える。しかし二度目の死は、一度目とは全く違う。本来のプリキュアであることを取り戻すために、彼女たちはもう一度死ななければならなかったのだ。
(明日の日記に続く)