1 侵略と防衛の物語〜無印前半

吉本隆明の『対幻想論』を忘れていた。僕はこの著書を理解していないくだらん物書きとして、よくあるように「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」という便利な言葉を借り出すことにする。
昨日の日記では「大義と個人との関係」という図式で闇の側と光の側を考えてみた。しかしそもそも大義と個人とが関係するという問題構成が成立するためには、大義と個人とが別のものとして存在していなければならない。
思うに闇の側とは原則的に共同幻想だけが個々人の関係となっている。そしてそれは、共同幻想以外の関係幻想が呼び出されない限り、そこに暮らす人々は幸せだということだ。闇の側には共同幻想だけがあった。全体と個との齟齬を感じる機会が多い現代から見れば、ドツクゾーンはある種の理想である。闇の存在としては不幸なことに、キリヤは闇の共同幻想とは別の関係を知ることになった。彼が対幻想を知ったのは、直接的には彼とほのかとの間に結ばれた関係であった。しかし彼は彼を気遣うなぎさ、なぎさとほのかとの絆などを目にすることで、虹の園の人々がそれぞれ対幻想を結んで生きているということを感じたのだろうと思われる。
ということで無印プリキュア前半は、共同幻想を関係の原理とするドツクゾーンと、対幻想を原理とする光の園との戦いであったと解釈することができる。しかし無印前半ではまだそれがはっきりと認識されていなかったのだろう。構図としては独善的な個人(闇の存在一人一人および初代ジャアクキング様)と、彼らをとにかく斥けようとするプリキュアたちのとの間における、個人対個人の戦いであった。
プリキュアたちと闇の存在たちのたたかいであり、光と闇とのたたかいであった。その意味で両者は同じ土俵に立っており、話としてはたとえば国家と国家の戦いであったり、番長同士のタイマンであったり、そういう感じであった。無印前半では光の側が正義であるということが、なんとなくとってつけたような感じがする。というのは光と闇とが対等な位置にいたからではないかと思われる。
無印前半を近代日本に読み替えると、ドツクゾーン大日本帝国であり、キリヤは戦時中に戦争を拒否しようとした非国民である。そしてプリキュアたち光の園側は、圧倒的な物量(エネルギー)と「自由な個人」にあふれていたアメリカであろう。