5 人を超えた存在=九条ひかりが担う「信」

MHでは九条ひかりが、光と闇との戦いにおける大義の部分を担っている。プリキュアたちは九条ひかりという人との関係の部分を担っている。この分担によって、無印での居心地の悪さはMHでかなり解消されている。
おそらくどんな大義を語ろうとしても、大義のよりどころというのは、最終的には論理を超えた「信」でしかない。「信」はもうそれ以上先に論理を入れても仕方が無い行き止まりであり、他者と交換不可能なものである。すると、他者と交換可能である言葉で「二つのもののどちらの大義が正しいのか」について論証を続けても、ある地点まで論証を進めるともうそれ以上歩み寄れない平行線になる。そこから先は、それぞれの人が何を拠り所として生きているかという信の領域に踏み込まねばならなくなる。
で、人間のことばとして普遍的に説得力をもつのは「信」より手前のどこかであって、それ以上は人ならぬ存在によって示されるしかないのだ。その「信」をプリキュアの物語で担っているのが、九条ひかりとあのお方だろう。
「信」の問題をなぎさとほのかが扱うと物語全体がとたんにうそ臭くなるだろう。裏を返せば、なぎさとほのかの口から「信」を語らせないからこそ「ふたりはプリキュア」という物語は非常にリアルなのだ。
光の側にプリキュアの二人しかいなかった無印では、そこから先の物語を語ることができなかった。しかしMHでは、人であるなぎさほのかの口からは言い得ぬ(が確かに我々がその存在を感じている)ものを九条ひかりとあのお方を通して描こうとしている。