2 大義と個人との関係〜闇の側

闇の側が持つ大義は、プリキュアたちの大義と対照をなすものだと考えます。闇の側の大義とは、ジャアクキング様復活のためには個を省みないというものであろうと思います。
「個を省みない」と言っても、あのお方を粗末に扱うということではありません。あのお方を単なる道具としてしか見ていないということでもありません。まあバルデスの描写としてはそれに近いですが、残り三人特にウラガノスはあのお方にとても優しく接しています。
闇の四人をセットで考えれば、あのお方を大切にしていると言えます。しかしその大切にする仕方が「我々はあのお方を大切に育ててきた。あのお方もジャアクキング様復活のお役に立てるまでに成長した。我々5人はここまで生き延びてきた。そしてジャアクキング様復活のため、闇による全ての支配のために死ねるのだからこれほど幸せなことは無い」ということになっている。
大義を抱くのは心です。命は信念を抱きません。九条ひかりが言うように、命とはただそこにあり光り輝いているものです。九条ひかりとは異なり、あのお方はこの段階まであのお方としての心を育てていない。ある信念を抱くことができるまでには、心を育てていない。
闇のために死ぬという大義を抱く前の、命そのものでとどまっているということが、あのお方だけが唯一ジャアクキング様復活の瞬間に(おそらく悲しみの)涙を流す理由のひとつです。彼は命そのものとして、大義のために誰かが犠牲になるということを無意識に拒んでいる。ドツクゾーンドツクゾーンでなくなるためにはこの大義を捨てなければならない。それを成し遂げることができるのは闇の存在でありながらも命そのものである、あのお方しかいないわけです。
そしてそれは九条ひかりにも言えることです。彼女はクイーンの命です。彼女は唯一光の側の存在にも関わらず闇に生まれたあのお方を闇の存在のままでも守ると言い切ることができる。闇を倒すのではなく、闇(の命であるあのお方ということになるが)を受け入れることができる。なぎさほのかは九条ひかりを守ると決意しているけれど、九条ひかりにとってそれは必ずしも良いことではない(良いことではなくなる)可能性がある。
九条ひかりにとって良いことではない、という部分については本日日記の↓に書いた「[メモ]母になる九条ひかり、父になれなかったあのお方」につながります。九条ひかりをなぎほのに対する母と見る場合、子が死ぬことで生き延びるというのは母として苦痛以外の何物でもないからです)