3 キリヤにとっての自己発見:無印第17話

無印第17話は、キリヤが闇と光との両者に自らがつながってしまったことを自覚する瞬間を描いた話数だった。彼が農作業の中で繰り返した「人間がわからない」という意味の言葉は、繰り返されるたびに彼の中での意味を変容させている。
「人間がわからない」というキーワードに対してキリヤの立ち位置を変化させてゆくこの構成は実に見事だ。理の人でありつつじっと待ちつづけることもできる母としてのほのかの特質を、キリヤ変容の触媒として効果的に利用している。
キリヤが発する「人間がわからない」というのは、裏から言えばキリヤは自身を知らないということだ。他者を知ることは自身と他者との境界を自覚することであり、結局のところ自分という領域を確定することになるわけだ。
それを製作者がわかっている。キリヤがキャベツを載せた一輪車を転倒させて怪我をしたとき、キリヤは自分の傷について何も心配していない。自分を全く構っていないのだ。
怪我の直後ほのかがキリヤを手当てに連れてゆく時「先輩、キャベツは?」とキリヤはそれまで馬鹿にさえしていたキャベツのことを話している。自分のことはキャベツ以下にしか考えていないわけだ。そのあと傷の手当てをするほのかに対して「なんで人の怪我の手当てなんかするんですか」と言い、キリヤの怪我を心配するほのかに「人間って、みんなそうなんですか」と質問する。
キリヤは自分のことを知らなかった。正確に言えば、自分が姉さんや他の魔人たちとは違う、自分という唯一の存在であるということに気が付いていなかった。同時に他者が他者その人それ以外の何かではないことも知らなかったということであってその辺はもっと言葉を尽くすべきなのかもしれない。しかしまあこの日記をバックデートで書いているので、あまり長文にしない。
そしてキリヤはほのかを通じて人間という他者の手触りを知った。事実キリヤは傷の手当てでほのかの手に触れていて、キリヤの指に捲かれたばんそうこうはその後にもキリヤにとって他者の象徴として重要な意味を託される。

母の闇としてのポイズニー

自己発見の話を続けるのだがその前にポイズニーの話をしておきたい。キリヤにとってポイズニーは絶対的な他者であり、同時に闇の存在としてのキリヤにとって安定的な基盤でもあった。ということは、キリヤにとってポイズニーは母親である。ポイズニーはグレートマザーの負の面を象徴している。キリヤを彼女が信じる世界に閉じ込めようとしており、キリヤがキリヤ自身の道を切り開くことを認めない。キリヤがポイズニーを離れることはできない。彼が闇の力により消滅させられるからだ。

解放と束縛の始まりとしてのほのか

母とは違う存在として、キリヤに世界を見せたのがほのかだった。ほのかを見つけることで、キリヤは世界を感じた。世界を感じることで、キリヤは母が他者であることを感じ、自分が母でもなく世界でもない固有の存在であることを感じた。キリヤがポイズニー及びジャアクキング様から独立することだと見れば、キリヤにとってこれは解放である。
解放されると言うことはしかし同時に、闇の世界から追われるということであり、またほのかを始めとする他者のことを他者として考慮しなければならない。それまで闇を従うべき唯一の尺度としてそれ以外のことは何も考慮せず振舞ってきたキリヤにとって、それは束縛である。

スタートラインに立って終わったキリヤの物語

キリヤは母の世界(ドツクゾーン)に従い続けることを拒否して、ドツクゾーンを追放されるのだった。自分の足で立ちつづけることを選択したということだ。そこで世界に立ち、他者たちとの関係の中で喜んだり悲しんだりしながら自分の場所を作ってゆくというのが、母の世界を拒否した後でキリヤがたどるべき道であるはずだった。しかし番組はプリキュアが主役なので、キリヤの物語については彼が自身を発見し、自身でいることを選んだというところで終った。
キリヤにとっては、自身でありつづけることを選んだ結果、世界の中で自分の居場所を作り上げるという時間のかかる平凡な日常を営んでゆくことこそが、母の闇から決別した後に成すべきことだ。プリキュアたちや闇のことなどとは関係なく。だから無印最終話で彼のことは消さざるを得なかったのだと思う。
(つづく)
id:dokoiko:20051002も同じ主題で書きます。