2 世界を救う偉大なる子供〜子供的世界の完成

ファンタジーの上がり

大人になるということは、大人にとっては過ぎ去りし日々の思い出である。それは思い出として懐かしく思い出される安全な風景であるが、子供にとっては何一つ分からない飛躍である。子供にとっては子供的世界が彼らの世界全てである。
子供が夢見るファンタジーのひとつのバリエーションとしてプリキュアの物語があるとすると、ジャアクキング様を最終的に葬り世界を救うことは子供的世界の「上がり」である。もうそれ以上の成功は無い。異界の力に選ばれし特別な存在として、彼女たちは世界を救った。彼女たちは子供的世界を極めたわけだ。
まあここまでが前述のいわゆる冒険活劇である。大人のためのお話ならばここから「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」となる。昔話では桃太郎とか藁しべ長者とか、異能力での成功がそのままこの世界での大人の生活へとつながっているお話だ。

日常へ着地することの難しさ

社会についての視角が狭かった近代以前ならば、ファンタジーはある程度日常とつながっていたのだろう。ほんとうはそうではなかったかもしれないが、少なくとも現代から過去を眺めた時にそのような郷愁を感じる人はそれなりにいるだろう。問題は過去にそうだったかどうかという事実の検証ではなく、現代に生きる人が現代をどのように認識しているかという心理の問題だ。
もしかしたら、昔のほうがファンタジーなどありえない世界だったのかもしれない。あまりにファンタジーが遠すぎたから、かえってファンタジーを現実を束の間忘れるための装置として機能していたのかもしれない。
現代は、というか現代の日本語社会においては、子供は誰でも自分が望む何者かになれる機会があるという幻想にあふれている。まあ大人でもそうだ。そうやっていろいろなサービスや商品が宣伝され、売られている。例えば「10歳までに才能を示せなければピアニストとして世に出るチャンスなどほとんど無い」とかいうことは誰も言わない。
夢を夢のまま形にならずかかえているという状態であることが、その人が子供であるということなのかもしれない。とは言え大人であるということが夢を捨てるということではない。何割なのかは分からないがとにかく夢をかなえているかもしれない。以前抱いていた夢とは別のことをしているかもしれない。
プリキュアに話を戻す。なぎさとほのかはファンタジーであるプリキュア的世界において、成すべき仕事を成し遂げた。彼女たちはジャアクキング様を葬り、世界を救った。もうそれ以上やるべきことが残されていないという、ファンタジー世界での最終的な仕事だ。
しかし彼女たちは、ファンタジー世界での功績を日常世界に持ち帰ることを許されなかった。桃太郎のように、鬼が島から財宝を持ち帰ることは許されない。現代のこの世界は、ファンタジーではないからだ。ファンタジーではない別の夢を見なければならない世界だからだ。鬼が島の無い世界が、現在のこの世界だからだ。
彼女たちは子供的世界=ファンタジーを卒業しなければならなかった。ほとんどの人々にとって現代社会で大人になるということは、凡百の群集に自分があることを前提として、しかしそこから夢を見なければならないということである。
その難しさが、無印プリキュアのラストに出ているのだと思う。
(続く、もしくは書き直す)