ひかり空回りする〜MH第19話(3)

おとといからの続きの続きです。無印第42話(以下第42話)との相違点を見ることで、今回のお話を考えています。

ひかり理解の難しさ

今週も延々と時間をかけて感想を書いているのだが、さきほどみちたろさんの論考(http://www.ymg.urban.ne.jp/home/mi1/p01.html)を読みました。

今回ひかりは(注:なぎさほのかとひかりについてこれまでの関係性であった)家族的癒着から離れ、なぎさ−ほのか間と同じ“友達”としての関係を確認した(後略)
(6月12日(日)の2  第19話感想・補足(家族から友達へ))

というのはなるほどなあと思いました。みちたろさんの観察は確かだ。最初からひかりとは友達であり、ずっと代わらず友達であるということを、ほのかは言葉で直接に(かつ意識しない言葉の端々で間接に)ひかりへ伝えた。なぎさも手帳に書いた内容と文体の両方で、なぎさにとってひかりがずっと友達であることを明らかにした。
それはそのとおりだと思う。そしてこれから先はみちたろさんの論考を下敷きにした僕の想像になります。
今回MH第19話のラストでは、ほのかとなぎさが「私たちにとってひかりは変わらず友達である」ということを明確にひかりへ伝えた。それは本当にそのとおりだ。しかしそれらの言葉を受け取って当のひかりが、なぎさとほのかに対して友達だという地平に立つことができたのだろうかと考えると、そうでもないのではないかと感じてしまう。
というのは、ひかりの個人的資質として生真面目で引っ込み思案であるということが僕の念頭にある。それはそういう感じがすると言い切ってしまうしかない僕の個人的な感じ方である。そしてもうひとつもうちょっと客観的な理由としては、虹の園における九条ひかりの存在基盤が、あまり確定的ではないものであると思えるからだ。なぎさほのかのことを、ひかり自身と同じ「友達」という地平に位置付けることが今のひかりに果たしてできるのだろうか、と思わずにはいられない。