2 通い合わない心と心

第42話の評価はAランクということでだいたい一致をみていると思う。そして今回はその第42話を下敷きにしている(えむいちさんはhttp://sakusaku.sakuratan.com/6月12日感想で無印第8話にも言及している)。しかし実際のところ、今回の出来栄えはどうだろう。話数全体としては、まず第42話に及んでいないと僕は思う。
おまえ何者だという感じで書いてしまうのだが、ネタの筋としては悪くないと思う。先ほども書いたように、今回の話をひかり一人称にする意図が感じられるので、なぎさの勘違いがあっという間に解決させたことは間違っていないと思う。勘違いであることを知ってからなぎさが見せていた明るさと、勘違いに引きずられたままのひかりがかかえた悩みの対比も明確だった。最後に第42話をほのかに思い出させて、今回の主題がどこにあったのかを再確認させた手法も丁寧だった。お話としてはプリキュア史上でも良い部類に入ると思う。
でも、と僕は思う。でも第42話に比べると、今回の物語が発散するエネルギーと言うか開放感というか解決感にかけていると思うのだ。
それは先ほど見た、第42話との相違点に原因があると思う。原因はお話の作り方ではなく、これまで語られてきた九条ひかりの物語とそれによって作り出されているひかりとなぎさほのかとの現在の関係の質にあるように思う。だから今回のMH第19話を論じるには、第42話との相似点ではなく、第42話との相違点を検討するべきだ、と思う。

戦闘後(もしくは屋上ラストの前)まで

(この部分についてはサブタイトルの通り、ひとまずラストシーンを除きます)
上に書いた第42話との相違点は、どれもひかりとなぎさほのかとの間で双方向の意思疎通がなされていないということだ。第42話に開放感を感じる理由は、

  1. 離別:お互いに絶望してしまったブラックとホワイトは、最初身体と心のどちらも引き裂かれていたが
  2. 知覚:それぞれの孤独の中で自分の心の中にお互いを見つけ、身体は離れていても心が通じ合い
  3. 信頼:通じ合った心と心が力を生み、身体的にもふたりはお互いを見つけ
  4. 再会:もう一度手をつなぐことができるようになり、分身たちを退けた

というように、離別→知覚→信頼→再会と時間の経過と共にブラックとホワイトがひとつずつ結びつきを取り戻したことにあるのだと思う。変身直後いつもの戦いになるかと思いきや離れ離れになり、一直線に奈落の底(地下鉄のホーム)にたどり着き、そこからまた一直線に再会へと突き進むという波乱のドラマが第42話にはあった。そのような感情を蓄積し解放する展開が、今回MH第19話に存在しないのだ。
しかし僕はMH第19話がダメだとは思わない。繰り返しになるが、現在のひかりが編んでいるなぎさほのかとの関係を考えると、双方向に心が通じ合うには無理がある。ひかりはずっと、自分が何も知らず何もできずにいることに引け目を感じている。なぎさとほのかに頼らず、なぎさほのかの役に立ちたいというのが、ひかりの思いである。だから、ひかりは自分が陥った危機が深刻なほど、なぎさほのかに頼るのではなく自分で何とかしなければならないと思う。
だから第42話のように、ひかりが孤立した時になぎさほのかを求めることは無い。彼女の心境は現在のところ、なぎさほのかから差し出されている絆の手が見えない。
ひかりがひとりで何とかしようと思いつめており、なぎさほのかに助けを求められないという状態にあることが、結果的に見るとひかりが毎回なぎさほのかに助けられることになっている。ひかりが空回りしているのは今回だけではなく、ずっと空回りしているのだ。
ひかりはとても生真面目であり、しかも自分にできないことがたくさんあることを自覚している。なぎさとほのかに助けられることで自分が何とか生き延びていると感じており、それを引け目としている。ひかりは小学生や中学生の子が「お父さんお母さんから早く自立したい。でもひとりでは生きていけない。早く自由になりたい」と思うような段階にある。
ひかりはずっと「何かふたりのためにできることは無いか」と自問自答を続けている。それは「ふたりの役に立てるような力を持った自分になりたい」ということである。しかしそれは自分の能力を信じようとしすぎているということでもある。「自分にはできないことがあるが、それでもいいんだ。自分ができないことがあるときは、誰かに助けを求めてもいいんだ」と、自分の限界を認めることができないということだ。自分の限界を認めるということは、他者を認めることでもある。誰かを認めて自分ができないことを頼るのは、その誰かのことを信頼して任せることでもある。
(続く)