2 理の人か感情の人か〜ほのかの情に対する評価

いっしゅうさん(http://www.geocities.jp/isshuu_a/precuremh118.html#lcn002、トピックの章)と僕とは、ほのかが彼女の中に宿している感情に対する評価が分かれているのだと思う。ほのかの情を彼女の本来と見るといっしゅうさんのように「実のところほのかは感情の人なのだ」という理解になり、彼女の情を未発達のまましまいこまれているものとみると僕のように「思わぬ感情の爆発に振り回される理の人」という理解になるのかなあと思う。
物語全体やサブキャラクタに視線を向けるみちたろさんとは異なり、いっしゅうさんは今回のほのか論ではほのかだけをずっと見つづけており、それは無印第1話にまでさかのぼるという徹底振りである。そこからほのかの情が物語の表に現れた機会をたどり、彼女の理が出てくる時には必ずその前提には溢れ出す情があるということを指摘している。ほのかは情の爆発を理にくるんで表出しているのだ、という考察を提出している。
いっしゅさんの考察を読んで僕が思い出すのは第18話だ。キリヤのクラスに乗り込んだほのかに対し、「まあまあ、ここはひとつ大人になって」となぎさがなだめようとしたときだ。このときほのかは「大人じゃないだもん!」と、なぎさにまで怒鳴り散らしている。普段のほのかならば、なぎさにまで怒鳴り散らすのが理不尽であるということは分かるはずだし、大切な理解者(というか誤解者か)であるなぎさにそんなことはしないだろう。だがこの時点でほのかの情がオーバーヒートしており、もともと持っている巨大な情のちからが、理の鎧を突き破っているというシーンだ。
ほのかの特徴的な資質は「間違っていることは絶対許せない」という強い気持ちだ。いっしゅうさんがすでに指摘していることであるが、いっしゅうさんが規定する「理の人」としてほのかが存在するならば、間違っていることを指摘するかどうかは打算のフィルタを通過することになる。ほのかはとにかく相手が誰であろうと状況がどうであろうと、間違っていると感じたことには打算抜きで間違っていると指摘する。またキリヤの悩みを聞いたところで別にほのかの特になるわけでもなんでもないが、ちゃんと聞いてアドバイスしている。というのがいっしゅうさんが(トピックの中盤までに)指摘するほのかの情である。
ほのかが魅力的なのは、そのような打算の無い正義への純粋な気持ちをほのかが身につけており、自分の信念に忠実に行動しているすがすがしさを感じるからだろうと思う。さらに、それでうまくいかないときにどこかへ逃げたり問題をすり替えたりせず、素直に落ち込んでしまうところが「だがそれがいい」のだろう。
ほのかを追いかけているという視点において、いっしゅさんと僕は同じであると思う。ただしほのかが宿している情について、それをほのかの基本的な原動力としてプラスに位置付けているのがいっしゅうさんだ。僕はほのかの情を、ずっとスポイルされつづけて幼いまま取り残されており、時にほのかにも制御できないやっかいなものであるとマイナスに位置付けている。というか、僕がこれまで描かれているほのかの完璧さをそのままほのかの一義的な資質として受け入れているのに比べ、いっしゅうさんはほのかの完璧さへの希求が過剰なエネルギーをもっていることの理由を探し、その結果実はほのかの理が内なる情に突き動かされてようやく発動しているということを見抜いているのだった。