1-2 帰り道があるから

では二点目。なぎさとほのかはごく普通の女の子として僕たちの目の前に現れた。そして客観的には伝説の戦士プリキュアとして、特別な存在となった。しかし(実質的に唯一の主人公である)なぎさは自らの特別性に違和感を抱きつづけた。ずっと「ごく普通の女の子」でありつづけようとした。特に日常では結局最後までごく普通の女の子だった。
結局なぎさとほのかは非日常の世界でプリキュアという特別な存在でありながら、日常ではそれがまったく露見することはなかった。本人たちもまたプリキュアであることを日常に持ち込まず、ごく普通の女の子でありつづけた。このことはプリキュアを見ていた小さなお友だちたちにとって「いまごく普通の存在であるどこかの誰かが実はプリキュアのような特別な存在なのかもしれない。もしかするとこの自分がプリキュアなのかもしれない」という想像を可能にする。
たとえば、もしなぎさとほのかがずっとプリキュアでありつづけたり、メポミポがずっとなぎさとほのかの元にとどまりつづけたとしたらどうだろう。その場合ある時点で誰かがプリキュアになったとしたら、その誰かは現在もまだプリキュアだし、今後ずっとプリキュアでありつづける。そうなると小さなお友だちにとっては、今プリキュアではない自分はプリキュアとして選ばれていないのではないかということになるのではないだろうか。どこかで誰かがメポミポと出会い、すでにプリキュアになっているのかもしれないから。
しかしプリキュアという存在がいつか終る期間限定の役割だとしたら、今誰かがプリキュアだとしても、その誰かのプリキュア期間が終れば、次は自分がプリキュアとして選ばれるかもしれない。
また自分がプリキュアに選ばれたとしても、いつかはプリキュアであることをやめて普通の女の子に戻るわけだ。なぎさほのかと同じように。例えばプリキュアごっこをしたとしよう。プリキュアになりきってザケンナーを倒したとする。やったー。そこでお母さんが言うわけだ。
「さっさと片付けてご飯食べなさい」
プリキュアが期間限定の役割ならば、ザケンナーを倒した時点できちんとプリキュアであることも終るわけで、「はーい」と言ってご飯を食べるために日常へ戻ればよい。それが正しいプリキュアだから。これが「ずっとプリキュア」設定だったら、ご飯を食べるために片付けをする自分は、なんだか偽プリキュアでしかないように感じるのではないか。
まあそんなことを考える小さなお友だちはいないのではないかと思うのだが、論理的にはそういうことになる。本放映でなぎさとほのかがプリキュアという役割を正式に降りたという事実は、小さなお友だちがプリキュアごっこをしても「本当のプリキュア」として思い切りごっこできるのではないかな。
祭りには終わりがあるから思い切り参加することができる。日常へ戻るための区切りがあるから、非日常へ思い切り没入することができる。没入した非日常で我を忘れ、帰り道について悩むことなく思い切りリフレッシュすることができる。
(補遺)
"In the future everyone will be world-famous for fifteen minutes."という言葉を、Andy Warholは肯定的に語ったのかもしれない。しかしAndyのような特別な存在ではない、彼が想定していたsomeone in the futureである大多数の人々にとっては、死ぬまで続く「15分後からの世界」で生きつづけてゆかなければならないということこそが大事なのだ。だからといってその15分には意味がないということではない。15分が来ることを信じられるからこそ生きつづけることに意味があるのかもしれないし、15分がやってきたことがその後生き続けるちからになるのかもしれない。world-famousになることのできる15分がないことが確定していたら、日常を生き続ける退屈さに耐えられないかもしれない。しかし、過ぎ去りし15分にしがみついて生きることは楽しくないだろう。その15分から正しく帰ってくることが大切なのだ。