1-1 日常の大切さ

ラストは寂しく終った*1。しかしこれは「日常こそが大切」という筋を通したからだ。ごく普通の日常こそが、なぎさとほのかが生きつづけるべき世界であることが、あの寂しいラストで描こうとしていたことだろう。心燃える非日常の物語は終った。ジャアクキング様は消滅し、メポミポは眠りについた。闇の脅威は消滅したけれど、光の園への通路もまた消滅した。もう彼女たちはプリキュアではなくなり、完璧にただの中学生になった。
プリキュアであることは戦いがあるということで、それは大変なことかもしれない。しかし同時にプリキュアであるという状況は、なぎさとほのかに闘うこと=生きることの意味を与えていた。二人はプリキュアではなくなった。もう闘わなくてもよい。その反面、ふたりはもう闘うことができないのだ。この先にはずっと、戦いの無い日常が待っている。戦う必要の無い、心燃やす必要の無い日常が待っている。二人が取り返した世界は、ふたりを特別な存在とは認めない世界である。ふたりはただの人として、凡百の人生を続けなければならない。
そんな日常はつまらないかもしれないけれど、今までのようなドキドキはもう二度とやってこないかもしれないけれど、でもそのつまらない日常こそがなぎさとほのかの本当の場所であるということが描かれた。
このラストは小さなお友だちたちに対して「夏休みや遠足や運動会のような、わくわくドキドキする非日常は必ず終るんだよ。そして帰ってくる日常は平凡だけれど、その平凡な日常こそ君たちが還るべきほんとうの場所なんだよ」と告げる。寂しくても悲しくても、その日常で生きていくことが君たちのほんとうなのだと。

*1:このラストは村上春樹羊をめぐる冒険』と基本的に同じ構成となっている。自分を中心にして回っている世界が消滅し、主人公は誰もいないどこでもない場所にたたずみ、涙を流し、そして日常に還ってゆく。ラストが構造としてパラレルであるということよりも、同じような喪失感や悲しさを感じさせることに驚いている。キリヤの結末では『ダンス・ダンス・ダンス』で村上がいまいち明確にできなかったところを、村上のもう少し先まで描いているとも思えるし。日曜朝8時30分のアニメでここまで村上的世界に近い描写をやったのには正直まいった。すごいな。これが小友にとってよかったのかはわからない。大友にとっても同じだが。