何もかもがパーフェクトである理由

というわけで美墨家は間の抜け方も含めて現代家族の一つのきわめて日本的な(というよりも現代日本に住む日本語使用者が平均的に目指している一つの)大衆的理想を絵に描いたような家族なのだった。日本社会に住んでいるマジョリティが自身で実現可能な範囲で描く夢を実現しているのが、彼ら美墨家である。一方雪城家はといえば、手の届かないところではあるもののなんとなく想像してみることぐらいはできる理想としてのお金持ち家族像ではないかなと思う。
雪城家の夫婦はなんだか怪しげな仕事をしているものの、基本的にはとてもいい人たちである。ちょっと世間離れしているお金持ちだが偉そうではないし、成金趣味ではないし、押し出しが強いわけでもない。いま彼らの描写を「ないない」として説明した。雪城夫妻はお金持ちの人々に対してそれ以外だと自己規定している人々が描いている一般像から、負の要素を排除していったところに存在している。雪城夫婦は世間一般というものを仮定する場合世間一般から乖離しているものの、その造形はあくまでも世間一般が描くようなお金持ちの造形を変形させていったところにある。
そして雪城夫妻というのは、いわゆる普通の人たちが「まあああいう感じだったらなってみてもいいかな」と思うようなお金持ち像なのではないかと思う。これは僕が勝手にそう思っているという根拠レスの感じなのだけれど、藤子F藤雄が描いていたような成金ではないし、火サスなどの二時間ドラマで描かれるような金持ちでもない。雪城夫妻はバブル期までのお金持ち像とは違う明るいお金持ちである。
なぎさの生活範囲を見ても、ことごとくパーフェクトな世界がそこにある。なぎさが通うベローネ学園は私立学校としてそれなりに名門っぽい感じに描かれている。敷地は広いし施設は充実している。校長先生を始め先生たちは強権的ではないし、通っている生徒たちもスレた感じはしない。かといって超進学校を目指して勉強付けになっているというわけでもない(まあ超進学校が必ずしも勉強漬けのカリキュラムかというとそうではないのだけれど)。
なぎさとほのかの友人たちはみんな明るくほがらかだし、なぎさが所属するラクロス部の先輩後輩は仲が悪いということもなく、ほのかが所属する科学部は楽しく集団行動をしている。
要するに、なぎさとほのかの周囲には一点の曇りもない。何もかもが現代的なパーフェクトさにあふれいているのだ。まあそれは小さなお友だち(と一緒に「ふたりはプリキュア」を見るだろう若いお母さんたち)に向けたヒーロー話だからということで説明がつくのかもしれない。何もかもがパーフェクトであるという情況は、なぎさとほのかのお話を明るくしている。敵との戦いは時にシリアスになったりなぎさとほのかの心を重くするのだが、一旦彼女たちが日常に帰れば、家族、友人、先生たちの明るい生活が待っている。秘密のヒーローとして過ごしている彼女たちがエネルギーをもらう場所が日常なのだ。
また闇の戦士たちに対してあくまでも対抗するためには、なぎさとほのかが決定的に日常を大切なものとして守り抜くんだという決意をすることが必要である。彼女たちが自分の日常に信頼を抱くことができなければ、彼女たちは日常の側を代表して戦うことを躊躇するかもしれない。物語を分かりやすくするにはなぎさとほのかが迷ってはいけないわけで、何もかもがパーフェクトである必要があるわけだ。
パーフェクトな日常が例えば岳さんのようなああいうヌケた父親として描かれるというのは、僕個人の好みに合致はしないけれど社会的に見ればそういうもんだよなと思うし、パーフェクトすぎるとは思うけれど家族の描写をしっかりやっているのは僕が「ふたりはプリキュア」を好きな理由の一つだ。