2 自我の相対化

なぎさがプリキュアを徐々に受容してゆくプロセスを見せていた。初期にはずっと「ありえなーい」を連発していたなぎさが、プリキュアであることを受け入れ始めたころからその言葉を言わなくなり、いつのまにかいろいろな物事を受け入れるようになっている。
10年ぐらい前「そうなんだあ」という言葉が気になる使われ方になったとき、僕はその奥には相手を受け入れきれない自我の絶対性が顔を出しているように感じた。
結構前から同じような気になり方で気になっているのが、「何だこれ」「何で?」「え?」だ。これらの言葉の使われ方はすべて「自分が知らないのだからそれは間違っている」という意味を持っているように僕には感じられる。「そうなんだあ」が裏に隠していた自我の絶対性が、今ではかなり表面に出ているように僕には感じられる。
だいたいそういう言葉が出る状況を僕が観察していると、そう言う人間が単に物を知らないだけだ。「いやそれはおまえが間違っているだけだ」と僕は思うのだが、本人は自分が間違っているとは思っていないのだろう。
なぎさの「ありえなーい」も巷の使用法としてはそういう傾向を色濃くもつ言葉である。ありえなーいといいながらプリキュアであることに距離を取ってきたなぎさだが、ありえなーいと言いつづけている間はこの世のものではないプリキュアという事実をなぎさの精神が受け入れることはできないのだ。
しかしそれも復活編にまで来ると、自分の知らない世界は確かにいくらでもありえるのだということが、なぎさにも身体的に分かってきたのだろう。ありえない世界が身体化したかのようなポルンを受け入れることができたのは、なぎさの自我が相対化を受け入れたということなのかもしれない。