再構築可能な現実;補遺

昨日の感想(id:dokoiko:20040823#1)では社員角沢が写真から消え他の社員も彼のことを忘れた描写や、レギーネ覚醒前に発生した(と解釈している)自動車事故、ベルゼイ・ガートルードが院長になってしまったことを「再構築可能な現実」という題名をつけて記述した。
すると22wさんからコメントを頂き、考えるところ大でした。

# 22w 『はじめまして。自動車事故の時のような再構築はドツクゾーン編でも再三描かれていたように思います。戦闘が終わると、直接関った者の記憶には残っているものの他は全て元通り(第2話のエレベーターと掃除機の足跡は例外?)。光の力でも現実の再構築ができるのか、そもそも光と闇の力は虹の園にとっては“夢”のようなもので、それほど干渉できないのか。そんなことを考えました。3人の新勢力の存在も併せ、別物に造り替えるというよりは期間の長短に関らず一時的にパラレルな事象を同居させているような印象です。』(22w, id:dokoiko:20040823のコメント欄)

このコメントすぐ下に書いた僕の返事を読んでいただければよいのですが、ダイアリー本編に書いたほうが良いと思うので書きます。ドツクゾーン編での「再三描かれていた」シーンが実際にありながら、僕がなぜ復活編での描写を別のものと考え、これについて「再構築可能な現実」という題名をつけて記述したのかを考えたいと思う。
一文で表現すると、僕はドツクゾーン編でのシーンは戦闘シーンを修復しておかないと人目につく(理由は良く分からないがジャアクキング様はこそっとプリズムストーンを手に入れたかったらしい)という消極的な現状復帰策だったと考えていたようだ。それに比較し、復活編でのシーンは戦闘手段のひとつとしてもっと積極的に光の園の現実を操作している(こそっとというのは変わらないかもしれないな。そのあたりはまだ上手く言語化できません)ようだと僕は考えているようだ。

というところでこの文章はもうちょっと続く予定です。更新は深夜に。