恋文日和

恋文日和 (1)dokoikoではないリアルな私をdokoikoが観測。ゆかポンに「感想を聞かせてね」と無理矢理押し付けられたのがなんか上手くイメージを貼れない『恋文日和』第1巻、第2巻。本人がわざわざ他人に押し付けるぐらいだからゆかポンがこの本の作者ジョージ朝倉の絵に影響を受けているのだな。というかこの手の絵を読むのは安野モヨコハッピーマニア』以来だな。そういえば『ハッピーマニア』も大学の後輩に押し付けられたのだった。小説だが姫野カオルコは花見娘に押し付けられた(はてなキーワードの「姫野カオルコ」は作品選択を間違えてるぞ。『喪失記』『受難』を入れないのはダメすぎ)。多分私にはその手の無闇なエネルギーを押し付けさせるオーラが出ているのだろう。『恋文日和』に出てくる主人公たちのテンションのベクトルは安野っぽいな。ただたまに出てくるカットがわたせせいぞうっぽくもありその辺がアクセントか。つーか物語の基本構図はわたせせいぞうそのまんまなのだがな。登場人物たちはまあ非常に現代的な容姿と態度を持っているのだけれど、こと恋文になると妙に文学的センスが湧いてくるわけで、そのあたりがなんというか現代的な柔らかな閉塞感を良く掴んでいるのかなあと思うわけだ。
「本当の気持ち」というのがあって、それは友人たちにも見せることがない。友人たちとは明るく仲良くやっていて、それなりに楽しい。でも友人や家族などの他人には見せられない一面が自分にはあって、そういう自分の中に縛り付けている自分の一面を解放したい。その解放をまだ関係することのない異性に求める。一般的情況として自己の解放はいま恋愛の場所にしかないと思われがちで、恋愛の場所にたどり着くというのが自己の救出と同じような文脈で語られているこの『恋文日和』は現代の若い人の心象をうまく掬い上げているとは思うのだがそういうのはちょっとアレだ。