満と薫〜依存と欠損
満と薫について考える。
その1.彼女たちは満と薫というふたり組みである。満と薫はどのようなふたり組みであり、そしてなぜ彼女たちはふたり組みなのか。
その2.なぜ彼女たちは役割を分担したふたりでなければならないのか。
その3.満と薫はどうなるか。
満と薫はふたりでひとりである。満は世界との交渉を担当しており、薫は内面の調停者というか代弁者というかそういう立場を担当している。上図の左側である。
しかし彼女たちは物理的に二人の人間の姿をしているわけで、満にも内面はあるし薫にも世界は押し寄せてくる。しかしふたりは役割を分担しており、自分の役割でない部分は空白である。空白でなければ、一心同体になることができないからだ。ということで満と薫は、上図右側のような状態である。
それをもう少し詳しく図示すると下図になる。
自発的な共同作業〜無印第9話(再)
無印第6話でホーピッシュを探しに河童山瓢箪池へ向かっているのだが、それはプリキュアとしての使命だった。第8話を終えた今回は、初めてなぎさからメップルへ働きかける話だ。ほのかにとってはなぎさが直面する難局に同道する話である。これまでそれぞれが近寄りがたい距離を保っていたが、第9話で初めて心が引き合っている。だからすごく第9話全体が親密な雰囲気であるし、なぎさとほのかはすごくかわいく思える。
しかし今見ていると絵柄としてはそれほどかわいいわけではないという気がする。まあこの後のみんな好き勝手作画を体験してしまったこともあるけれど、はじめてみたときにあれだけかわいいと感じたのはやっぱり「ずっとじれったい関係だった二人が大喧嘩して劇的に結ばれて良かったね! すっきり!!!」という心理状態だったからだろうな。
(過激さんウィーク文章が上がりました。過激さん読んでいただければ幸いです〜)
追記:不毛な議論、理解と同意
あんたがポポ糞を許容するなら、あんたと俺の考えは永遠に理解しあえない
なにを話しても水掛け論だ、これ以上質問しても「不毛」なだけだぜ・・・
(過激さん、2006年6月6日コメント)
たしかに、過激さんがポルンを許せない理由がわかった以上、あまりそれについて質問することは残っていないと思う。しかしそれは、たとえばもし過激さんがポルン大好きで、「ポルンかわいいよポルン」の理由を尋ねたとしても同じだろう。どちらにせよ、そうそう何度も聞かなくていい話だ。
過激さんにいただいたコメントを通じて、僕は過激さんの感じ方や考え方を知った。しかし僕はそうではない。一般化した言い方をすれば、ポルンに対する過激さんの思いを、僕は理解するけれど同意しない。それを図にするとこんな感じになる。
この図の意味において、過激さんとコメントを投げ合うことはポルナレフ状態から強敵と書いて(ry状態への移行であると思われる。これが「不毛」かというと、僕は不毛ではないと思う。不毛というのは理解も無ければ同意も無い、お互いが別の世界に住んでいて敵意だけがあるという状態だろう。
さらに今回の件で言うと「ポルンかわいいよポルン(;´Д`)」とか「ポポ畜氏ねや(゚Д゚)」とかどちらでもよいのだけれどスローガンだけで意気投合してしまうのは、僕にとっては楽しくない。たとえばプリキュアのオフでひたすら「なぎさタンはぁはぁ」という人がいたらそんな人はいやだ。たぶんそういう人にとって、僕のように意味を考えてばかりの人は嫌だろうけれど。
言葉を交わすということは、上の図では下側から上側へ移動することだ。ポルナレフから強敵になるということであるし、うわべの付き合いからナカーマになるということだ。それは言葉を交わしてゆけばやがて必然的に動いていくだろう。しかし右から左、左から右という移動は、個人の歴史や信条や状況がかかわる事である。必然的に強敵からナカーマになるわけではないし、その逆もまた然り。
だからナカーマにならなくとも、強敵になれるだけでもすばらしいことだと思う。
過激さんIII 電子の要塞
ということで三回目です。
ポルンの評価
id:dokoiko:20060608では過激さんのポルン理解および評価をまとめてみた。そこでますます強引にまとめてしまうのだ。
- ポルンは幼児として造形されている→ポルンむかつく
- ポルンの「かわいさ」が過剰に演出されている→製作者許せん
- ポルンの幼児性が作品中で積極的に許されている→ありえない
こんな感じだと思われる。ポルンがそのようであるというのは僕も同意する。上記「ポルン」を「○○○」にしてみれば、僕にもこういうことはある。しかしだからといって過激さんのような具体的かつ徹底的かつ継続的な行動は取ったことが無い。「大好きなプリキュア」にこのポルンが登場したことが、過激さんを過激にしているのだろう。
作品に対する接し方
過激さんと僕が異なるのは「ふたりはプリキュア」という番組の受け取り方であるように思える。ある観点からすると、過激さんは行動的である。「過激さんが好きなプリキュア」を取り戻すために、無意味かつ間違った行動かもしれないけれど過激さんなりの行動をしている。しかし別の観点からすれば、過激さんは受動的である。「過激さんが好きなプリキュア」に縛られていて、「ふたりはプリキュア」においてポルンが果たしている役割や、ポルンを通して描かれたものを受け入れることができない。
「ふたりはプリキュア」においてポルンにはいくつか重要な役割が与えられている。またポルンを通して描かれたものも少なくない。過激さんがもしポルンを我慢できるぐらいには受容できるのであれば、過激さんはもっともっとプリキュアを楽しむことができただろう。
たとえば無印の最終決戦ではポルンが最後のカギであったわけだが、ポルンの歴史を丁寧に見ていれば、あの大化けを「ご都合主義」だとは思わないだろう。MHでは九条ひかりの成長や心情がポルンとの関係を通じて描かれる場面があり、九条ひかりのストーリーはポルン込みのほうがずっと厚みが増す。
過激さんから見れば僕は一方で「与えられたポルンを無批判に受け入れるアニオタ」であり「ポルンの害毒を追求しない愚者」であろうし、また一方「ポルンに躓かずにプリキュアを楽しめた勝ち組み」かもしれない。
過激さん/帝国の逆襲
今日の表題はid:dokoiko:20060606に続く過激さん第二回目ということ以上に意味はありません。過激さんからアジのある読ませるご回答をいただいた。夜遅くまでありがとう。でも僕はそれを面白みも何も無い無機質な箇条書きへとまとめてしまう。だから6月6日の過激さん元コメントを読んでくださいね。
過激さんの基本的な立場
過激さんのポポ畜文章(id:dokoiko:20050605)およびおとといコメントから、過激さんの基本的な立場を(勝手に)推測整理しよう。
過激さんはポルンおよびルルンがとても嫌いだ。しかしプリキュアが好きである。ただしポルンとルルンが存在しないプリキュアである。これは単にポルンとルルンがいなければおkというものではなく、両者が登場していた無印後期からMH終了時までのプリキュアについても否定的である。この時期のプリキュアはストーリー、戦闘シーン、販促ありきの姿勢だと過激さんは考えている。
過激さんは自ら「過激」と名乗っているけれど、実は過激ではない。「俺の文章パクラレテル」と思っても荒らさないし、ポポ畜スレに報告もしない。それどころかほぼプリ(のような非ポポ畜サイト)にポポ畜文章をアゲたりしないよと言う。専用スレができてからはおそらく「不毛な争い」をしていない。ということは、外部の迷惑にならないように振舞っているわけだ。過激さんにはそういう物分りのよさがあるわけだ。ファンサイトの掲示板にポポルル批判を書き連ねるようなどうしようもなくカコワルイことはしないのだろう。
そして、反ポポルルという自らの立ち位置が相対的であり、そうではないところに人が存在することを受け入れている(これは諦めかもしれない)。
ポルンの属性および評価
過激さんはポルンを以下のように把握している。
異様なまでに可愛いで塗りつぶした外見、反吐がでるような声、言動、ミジンコにも満たない思考能力
子供には受けが良いのかもしれない
わがまま、頭悪い、なんかムカツク、悪趣味なくらい「可愛い」で固めた外見、舌ったらずな声、〜ポポ、それでいて許されている、子供だからしかたない、泣いて喚けばなんでも通ると思ってる、魅力ゼロ、酷い目にあわない、反省ゼロ
(おとといのコメントより。「」は引用者による追加)
そしてそんなポルンに対して、過激さんは以下のような評価をしている。
大友はキレちまった・・・とにかく存在そのものがムカツク
小学生だろうが赤ん坊だろうがこんなぶよぶよ(中略)は生きてるだけで罪悪だ
(同上)
このあたりに(僕が)お返事するには、かなり丁寧にしないとただ無意味な感情のぶつけ合いになるのでゆっくりやります。過激さんのポルン理解は、僕とあまり変わらない。それがわかっただけでも過激さんに感謝したい。
(明日に続く)
2 成長するふたり
咲舞は成長しない。彼女たちはすでに与えられている。すでに与えられているものに気が付く。それが彼女たちの「成長」と言えばそうかもしれない。それはなぎほのが見せた成長とは異なる。なぎほのの成長は、ゼロからの獲得だった。というか視聴者にはゼロからの獲得に見えるような構成と演出が成されていた。しかしS☆Sにおいて、僕には咲舞がすでに与えられているものが見える。見るようにあらかじめ組み立てられているのだと思う。
S☆Sにおいて、成長するのは満薫なのだろう。満薫には何も与えられていない。彼女たちに唯一与えられているのは、アクダイカーン様への忠誠だけだった。しかしそれもS☆S第18話を経て絶対ではなくなった(という描写が行われることで、満薫の言葉とは裏腹に視聴者にはそう見えるようになった)。たとえば特売の休憩時間で満が咲に語りかけるとき、OPのピアノ演奏がBGMとして使われていた。これはのちに満薫がプリキュアを助ける場面で回想シーンとなるために必要な演出である。だがそれはそのシーンになってわかることだ。休憩時間シーンの最中において、あのBGMはドラクエのレベルアップBGMのような役目を果たしている。満薫が何かを獲得したことを視聴者に知らせる働きをしている。
彼女たちには感情が無い。社交性が無い。思いやりが無い。やさしさが無い。常識が無い。情熱が無い。夢が無い。友達が無い。家族が無い。満薫にはアクダイカーン様への忠誠しかない。それが無ければ自尊心が高く無目的で独善的で無礼で冷笑的な、要するに世間知らずのませガキだ。そんな満薫がひとつひとつ与えられ、人として成長してゆく。僕にとってそれはなぎさとほのかを彷彿とさせる。