1 精神崩壊の危機〜一度目の死と復活

最終話開始直後にプリキュアは動けなくなっており、ジャアクキング(ハリボテ)による世界の崩壊を見届けなければならなかった。いっそ死んでしまえばよっぽど楽であるが、彼女たちは世界の崩壊を見なければならなかった。そしてジャアクキングによって開けられた地底の暗黒へ落ちてゆく。
ここでプリキュアたちは一度目の死を体験する。肉体的な死でもあり、精神的な死でもある。肉体的な死とは本編で描かれた地底への落下だ。
精神的な死とは、世界をひとつの精神に置き換えた場合彼女たちは自我であって、地上=自我世界が崩壊して地底=無意識世界へとプリキュアたち=自我が落ちてゆくのである。この場合ジャアクキング=無意識世界の混沌そのものである。このシーンは無意識が意識を飲み込んでゆく精神崩壊がここで起きているということになる。
最終話の描かれ方を素直に解釈すると、ここでプリキュアたちは死んだと考えられる。地底の暗黒で彼女たちが体験した「家族」は、なぎさほのか本人すら含んでいる過去である。ここでは現在と過去が同時に経験されているどころか、同じ場所に昔の自分と今の自分が同時に存在している。因果律を越えた場所であり、まさに混沌そのもである。この世の因果を越えた場所にたどり着いているわけで、これは明らかに「死」の世界である。

メポミポの告白

以前よりメポミポはなぎさほのかの本心というか、彼女たちの中にあるけれど語られぬ言葉を代弁する巫女のような存在であると考えている。今回もその通りだと思う。プリキュアたちが燃えているときには恐怖を口にするし、無印第42話や今回のようにプリキュアたちが絶望している時には希望を口にする。

メップルメップルは感謝してるメポ。メップルはブラックと一緒にいるとすっごく楽しかったメポ。メップルはブラックと出会えてほんとうに幸せだったメポ」
(中略)
ミップル「ずっとずっと一緒ミポ」(この言葉はラストに再び出てくる)

メップルはすでに過去形で「出会えて幸せだった」と語っている。メップルはすでに死を繰り込んで発言していて、この発言に誰も異議を唱えない。ジャアクキングに立ち向かうことを諦めたわけだ。
諦めた瞬間に彼女たちは暗黒へ落ちてゆく。諦めた瞬間、精神的に死んだからだ。

ここで何が死んだのか

ここで死んだのは、

  1. 物語に則して言えばプリキュアとしてのなぎさほのかであり
  2. 象徴的意味で言えば「独立自存の自我」または「前衛意識」であった

と考える。上記1については話数に表現されているので見れば分かる。よって2について考える。これまでプリキュアたちは「プリキュアである私たちが闇の存在と戦わなければ!」という決意を(ふたりで)固めることによって戦いを戦い抜いてきた。「私につながる全ての命」及びそれに類する言葉がこれまでも何度か登場した。しかしそれは、プリキュアたちが戦うための拠り所として語られたものだった。あくまでも闇の存在たちと戦うのはキュアブラックキュアホワイトシャイニールミナス個人であった。これまでも無印第42話など、プリキュアたちが絶望したことはある。だがこれまでは「守るべきもの(たち)」を心の支えにしてプリキュアたちが立ち直るという構図になっていた。
しかし今回は違う。彼女たちは絶望から立ち上がることなく闇の底に飲み込まれてゆく。彼女たちはプリキュアとして何もできない。指さえも思うように動かせない。絶望の中で涙を流すことができるだけだ。彼女たちがキュアブラックキュアホワイトとしてできることはもはや何一つ無かった。プリキュアとして彼女たちは失敗した。プリキュアとして彼女たちは無力だった。
そこでたどり着いたのが、家族のイメージであった。なぎさとほのかは一体なので、二人がそれぞれ見た家族のイメージはつながっている。

岳「うまくいかなかったことを素直に受け止めるってことも勇気だぞ。なぎさ」
理恵「そうよ。なぎさ」
さなえ「明日はきっといい日になりますよ。ね。ほのか」

ここで体験しているそれぞれ少女時代は、直接現在につながっている。少女時代の彼女たちは、失敗を受け入れられず(なぎさ)、自分の無力さを受け入れられず(ほのか)に泣いている。そんな彼女たちを、失敗したり無力であったりする彼女たちをそのまま受け入れてくれたのが、家族だった。彼女たちはひとりじゃない。彼女たちは家族によって生かされている…… ずっとずっと、彼女たちがこの世に生を受けて以来ずっと。それに気が付き、プリキュアである私たちだけでは戦えないし、私たちだけが戦っているのではないということに気が付いたのだ。プリキュアが守り虹の園が守られるということではなく、みんなが守りみんなが守られているということに気が付いたのだ。
さいころの彼女たちだけでは乗り越えられなかった時(運動会での失敗、父母を止められない無力)、絶望した彼女たちを許し、助け、生かしたのは家族だった。
そしてそれはジャアクキングと戦っている現在でも同じであるということに気が付いた。その瞬間に彼女たちは復活するのだが、この時彼女たちは彼女たちであると同時に彼女たちではない。彼女たちの体は全ての命がひとつに集まって動いているのだ。というわけで彼女たちは全ての命を体に宿している「命そのもの」へと生まれ変わっているので、ジャアクキングバルデスの中の人)を押すぐらいに強いわけだし、ブレスはまばゆく輝くわけだし、宇宙そのものから放たれたエネルギーを消滅させることができたわけだし、つまり復活前とは別人の強さを持つことになったわけだ。
以上は「独立自存の自我」であることをふたりがやめたことに対する説明である。次に「前衛意識」について書く。これはまあ蛇足になるので簡単に。
ヒーロー物の定番として「守るべきもののために戦う」というのがある。それどころか刑事物とかやくざ物とか恋愛物とかいたるところでこれを耳にする。僕はこの言葉が嫌いだ。私は守るべき存在、真理を知り力を持ち優秀であり、私の庇護下に誰か守られるべき存在、真理を知らなかったり力が無かったり普通だったりする誰かがいて…… という図式がイヤ。
これは昔だったら共産党社会党全共闘や護憲反戦活動における大衆運動指導層、現在(というか10年ぐらい前まで)なら「市民活動」の活動者たちが抱いていたものだ。無知な大衆を解放するため我々は命を賭けて指導教化する、という。要らないお世話だっつーの。いや彼等の理念と「大衆」が大きく乖離していなかった時代には結果的に前衛意識問題は隠蔽されていたわけだが、高度成長を経て社会が安定期になると「総保守化」「市民意識の衰退」とか「本来の大衆意識が隠蔽されてしまう巧妙なシステム社会の罠」という言葉を使ったわけだ。そこにおいて彼らが想定する「市民意識」「大衆意識」ひいては「市民」「大衆」というものが、実は彼らが抱くひとりよがりな理想に過ぎなかったことが明らかになるわけだ。「総保守化」した大衆こそが現実の大衆であって、大衆の変化を「総保守化」としか理解できない彼らは、実は大衆の側に立ったことはほとんど無かったのだということだ。いわゆる保守や右翼は素直に衆愚を導こうとする分素直なのだが、自分を「真の大衆/市民」と信じて疑わない人たちはタチが悪い(それぞれが抱いている理念の優劣は別として)。
それはいいとして、話はプリキュアだ。現在ヒーローのお話を語ろうとする時、前衛意識をどう処理するかというところで、お話として同時代のリアリティと接続できるかできないかがあらかた決まるような気がする。
前衛的態度の拒否は、日常の大切さという側面としてプリキュアにおいてずっと描かれていることだ。これまでプリキュアは日常の大切さを日常で描きつづけた。そして決戦でも日常の大切さをセリフとして組み入れてきた。しかしほぼプリで以前に何度か書いているように、僕には決戦で語られたプリキュアたちの言葉が、いまいちしっくりと物語の中に嵌っていないように感じてきた。
最終回を見て分かってきたことであるが、僕にとって引っかかっていたのは、プリキュアたちの前衛意識(前衛的な存在様式)だったのだろうと思う。
これまで最後の最後、ジャアクキングとの決戦になると「守るものとしてのプリキュア−守られるものとしての虹の園」という図式が出てきた。この図式が出てしまうと、いくらプリキュアたちが「全ての命とつながっている」と叫んでも、彼女たちは構造的に前衛である。彼女たちが語る「日常」「全ての命」は彼女たちの心の中(思い出、記憶、意志)にしか存在基盤を持たないものとして僕には前衛的に感じられていたのだろう。

そして何が生まれたのか

まあこれはすでに書いているので簡単に。プリキュアとして自分たちの力で世界を救うという孤高のヒーロー(の魂)が死に、全ての命に動かされる虹の園そのものが生まれたわけだ。光の園がクイーンに代表され、ドツクゾーンジャアクキングに代表されるのと同じく、再生したプリキュアたちは虹の園を代表する存在となっているのだった。