3 美墨なぎさと小田島友華

なぎさの基本的な性格

なぎさはキュアブラックである。通称黒。そして好き嫌いがはっきりしており、感情の起伏が激しい。ほのか、ひかりとの変身娘三人組の中では最も自我のあり方が強い。ように見える。しかしなぎさは他者受容については三人の中で最も寛容である。自我の壁が最も薄いのではないかと考えられる。
普段いろいろとなぎさが表出しているのは情である。情というのは分節を拒否する。分節は理の領域である。情とは、あれかこれかである。受け入れるか拒否するかのどちらかである。
そう考えると、なぎさが藤Pとの関係においてああいう変遷をたどったというのも必然だということになる。なぎさにとっての関係は、あれかこれかのどちらかであって、誰かと絆を結ぶためには重大な転回点を必要とする。ほのかとの関係について第8話を経て今にいたるというのもそうだし、メップルとの関係は第9話、プリキュアであることを受け入れたのは第11話、ポルンとの関係は第32話が転回点となっている。どれもそれ以降は迷うことなく受け入れるようになっている。
なぎさはそれに加え、なぎさ自身との距離に関係なく他者その人を自分と対等な地平において他者と関係する傾向をもっている。ぶっちゃけ、馴れ馴れしく振舞うわけだ。その振る舞いはポーズではない。なぎさが馴れ馴れしく他者と接するのは、人間関係における自身と他者との社会的地位を測らないというところから来ているように思える。なぎさはそれだけ未熟であるというように否定的な見方をすることもできるし、なぎさは大人の窮屈さから人々を解放する光のような存在であるとして肯定的に見ることもできる。
周辺の人物たちに対する関係においてこの馴れ馴れしさ(もしくは神々しさ)は発揮されている。ユリコの弁当は平らげるわ、教頭先生の口真似はするわ、さなえおばあちゃまにはほんとうの孫のように(ほのかが他所の子に感じられるぐらいに)口を利くし、千秋を差し置いて合唱の自由曲を押し売りする。

小田島友華にとって徐々に認識されてゆく美墨なぎさ

この馴れ馴れしさは、小田島が登場した無印第16話時点では小田島にとって単なる馴れ馴れしさでしかない。それどころか、小田島にとって美墨なぎさという存在は意識されていない。このときの小田島にとって、問題は自分自身だけである。そこに他者は存在していない。なぎさの印象といえば、体育館で危険なことをして反省していない勝手な下級生でしかなく、小学生のように黒板消しを持ってはしゃいでいる躾のなっていない中学生でしかない。
これが無印第34話になるとそうでもなくなってくる。無印第34話は、小田島がマドンナの誇りを賭けてなぎさとリレーで勝負するというあらすじだった。それだけを見ると無印第16話でマドンナの立場に違和感を感じていたはずの小田島が、また完璧にマドンナであることを受け入れているのかが奇妙に思えたものだった。しかし今回の小田島を含めて三度の小田島登場回を俯瞰すると、その違和感もかなり減少するように思える。無印第34話は、無印第16話と今回MH第24話との橋渡しの役割を果たしている。
無印第16話では小田島にとって単なる無名の誰かであったなぎさは、無印第34話において小田島の存在を脅かすほどのポテンシャルを持った「美墨なぎさ」として小田島が認知する。それが小田島の三つの物語における無印第34話が果たす役割である。小田島は常に学園のマドンナとして他者と関係しており、自分を測る尺度ですらもマドンナ以外には持っていない。またマドンナであることを苦痛に感じながらも、自分がマドンナではないという状況はおそらく受け入れられない。となると、小田島にとって他者を他者として認知するには、その他者が自分のマドンナ性を脅かすような存在である必要がある。小田島はやっぱりどこまで行ってもマドンナの呪縛から逃れられないのだ。
だからこそ体育祭の練習で周囲の下級生たちに注目されている(らしい)という事実を知った瞬間に、小田島は美墨なぎさを下級生のひとりから「下級生から注目されている美墨なぎさ」として認識した。そしてはじめて自分のマドンナ性を脅かす可能性を持つライバルとしてなぎさを認識したことは、マドンナとして常に学園生たちの注目を集めつづけてきた(と認識している)小田島にとって、自身がマドンナであることの重要性を再認識することになったわけだ。自分はマドンナとして存在しなければ、他に何があるのか… と。

小田島友華における他者と自身の発見

無印第34話でなぎさに負けるまで、小田島友華には誰でもない誰かという意味での他者は存在しなかったのだろう。マドンナとして小田島を遠巻きにする、交換可能な誰かしか小田島の世界には存在しなかったのだと思う。だからこそ小田島は、マドンナであるという他者がうらやむような状況を悩んでいたのだろう。
自分が何者かであることがわからなければ、自分が何者かであるということには意味が無い。マドンナであることは、小田島にとって自分が何者かであるということの中身である。
自身のマドンナ性が絶対確実なものではないということを、なぎさの「登場」によって小田島は知ることとなった。それまで小田島は何をしなくても絶対確実に学園のマドンナでありつづけるものだと思っていた。だからこそ、マドンナであることから逃れたいと感じていた。何をしてもマドンナでしかありえないのだとしたら、なぜ自分をマドンナらしさに縛り付けて我慢しなければならないだろう。だって何をしたところで(とは言え小田島にできる何かというのはそれほどマドンナらしさの型から遠くないだろう)マドンナなのだから。
美墨なぎさが自身のマドンナ性を脅かすかもしれないと知った時、小田島は自分がマドンナであることが自分にとって当面の重要な精神的支柱であるということを感じたのだと思われる。マドンナである以外、小田島友華には自分を支えるものが無いのだ。
ということで無印第34話では「マドンナの名において」なぎさとリレーでたいけつすることになった。
そこで負けたわけだが、これは小田島にとって結果的によかった。負けたことそれ自体も良かったのだが、負けた相手がなぎさだったということも同様に良かった。というのは、小田島が勝っていたならばやっぱり自分は絶対にマドンナなのだという結論になりかねない。こうなると小田島はまた結局、自分がマドンナであり続けるために窮屈さを感じていただろう。元の地点に戻ってしまうわけだ。小田島は勝負に負けたことで、自分にとってマドンナであることは絶対ではなく、マドンナであるために(そしてなぎさにいつか勝つために)努力しなければならないのだと感じただろう。小田島にとっては、なぎさという目標ができたわけだ。
また、負けた相手がなぎさでは無かったならば、小田島は学園のマドンナであるという自分の支柱を失っていたかもしれない。なぎさは社会的地位で人を判断しないし、そもそも社会的地位を自覚していない。学園のマドンナという地位は、なぎさにとって意味を持たないし、なぎさにとって学園のマドンナとは何があっても小田島友華でしかありえない。だからなぎさはリレーに勝っても小田島からマドンナの地位を奪わない。
ということで、マドンナとしての地位は失わず、なおかつマドンナであるために努力していつかなぎさに勝つという目標を小田島は手に入れたのだった。

(長くなってしまったので明日の日記につづく)