クイーンではない九条ひかり〜MH第21話(2)

今回は話数の全てを通じて九条ひかりの行動が狂っている。それは後日考える事として、昨日の続きです。

差別しない命、九条ひかり(2)

九条ひかりは誰にでも丁寧語で接する*1。年齢性別を問わず、それどころかなぎさとほのかにもそれは変わらない。敵に対してさえあまり変わらないようにも見える。
九条ひかりが持つこの特質は「ふたりはプリキュア」登場人物の中でも彼女だけのものだ。彼女は誰にでも丁寧語で接することにより、全ての人から閉じられていると同時に全ての人へ開かれているのである。
丁寧語を使うことが全ての人から閉じられているというのは、特に思いをめぐらさなくても思い当たることである。MH第15話で描かれたのがそれであり、九条ひかりが丁寧語の壁を越えて奈緒美羽を自分の領域に迎え入れたのだった。奈緒美羽は「あたしたち同級生なんだから、ハイは変だよ。うんでいいよ」と話していたし、今回も大輝が「同い年か。敬語なんて使うなよ水臭い」と話している。
と書いていて気がついたのだが、今回もひかりは敬語を使うのはよろしくないと示唆されたのだが一瞬たりとも動じることなく丁寧語を使いつづけている(ただしこれについては、洋館の少年が近づいてきたことで今回MH第21話の全編を通じてひかりが変調をきたしていると思われるので、その影響だとも考えられる。九条ひかりの変調については後日改めて考える)。
一般的に想定されている行動原理として、丁寧語は距離を表現している。ひかりと誰かという一対一の関係のみに焦点をあてる場合、上記のようなシーンとして丁寧語は距離があるということを表す。しかし九条ひかりのように一貫して丁寧語を使用する場合、それは周囲の人々全てをひかりから等距離に配置することとなる。一対一関係の内容に注目するのではなく、ひかりと他の人々との関係の距離に注目するわけだ。すると、ひかりを中心として全ての人々(闇の住人も含めて)が等しい距離でひかりと関係しているという図が見えてくる。
なぎさとほのかは自分たちの実力で敵を退けなければならず、やらなければやられるという覚悟が身についてしまっている。だから敵が出てくれば出てきただけで拒否反応を示すようになっている。丁寧語の話で言えば、彼女たちはこれまでの経験から家族と友人と知り合いと同級生と先輩後輩と先生大人とで、それぞれ別の距離を作って関係している。それを端的に表現しているのが言葉遣いである。生活の中で帰納的に獲得した言葉遣いと対人関係の距離との相関関係は、それを自覚すると今度は演繹的に言葉遣いと対人関係とを相関させようとする力学が働くことになる。
九条ひかりが持っている言葉遣いの平等性は、彼女が命そのものであるというところから出ているのだと思う。クイーンはジャアクキング様と対応しているから、当然正義と悪(というか光と闇)を区別する。しかしクイーンの要素のうち命を司る九条ひかりは、命あるものはとりあえず全てを等価に扱おうとするのだろう。その上で他者の命を踏みにじるものは許さない。まあプリキュアたちも根源的にはそうなのだが、九条ひかりはさらにそれを突き詰めている。闇の戦士たちであろうが、洋館の少年だろうが、他者の命を踏みにじらないのならば九条ひかりは彼らを許すように動くのではないだろうか。

*1:昨日書いたようにポルンは例外であり、これまた昨日書いたように奈緒美羽は無かった事にしています