4 友達であるということに慣れていないひかり

なぎさとほのかにとっては、ひかりは文字通り友達である。ひかりと関係しているのはなぎさほのかの自発的な意志である。ひかりに何か根源的な存在基盤を担保してもらっているわけではない。更に言えば、なぎさとほのかはすでに虹の園で友達という関係性についてたくさんの事例を学んでいる。帰納的に友達とはどのような関係性かということを知っている。だからそれをひかりに当てはめればよいだけであり、なぎさとほのかにとって誰かと友達であるということは慣れ親しんだ行動なのだ。
だから1)関係として友達である 2)友達であることが既知である、という2点によって、なぎさとほのかは何の疑問も無くひかりのことを友達と位置付けている。なぎさとほのかにとってはひかりが友達以外には見えていないというべきかも知れない。しかしひかりが見ている現実はそれと全く異なっている。ひかりにとって1)関係として友達ではない 2)友達という概念が未知である、ということになる。
だからこそみちたろさんはおそらく、ラストの屋上でほのかとなぎさがわざわざ言葉と態度で丁寧に「友達であること」の意味をひかりに教え、ひかりが「友達であること」の意味を知ることとなったと論考しているのだろう。
みちたろさんの論考のように、ひかりは今回友達であることの意味を理解しただろう。しかしひかりは内気な資質であり、なおかつ友達としての振舞い方を経験していない。だから第8話から第9話のなぎさとほのかように突然態度が変わることはないだろう。
第8話でお互いがダイアリーに書いていたのは、なぎさとほのかそれぞれの気持ちである。相手に向けられた言葉ではなく、自分の核へと降りてゆく自分のための言葉だった。「ずっと友達でいようね」と相手に語りかけるような言葉は無かった。しかしなぎさとほのかにとってはそれだけで十分だった。なぜならなぎさとほのかは関係として対等であり、自分と同じ気持ちを相手が持っているという事実さえ分かり合えばよいからだった。
しかしひかりに対しては、おそらくそれだけでは足りないものと思われる。というところになぎさほのかとひかりとの関係において構造的な不平等が現れているように感じる。今後、ひかりがなぎさとほのかを友達であると感情の段階から感じるようになるというのが、物語としての大きなヤマとして描かれる、のか。