2 なぎさの三点測量

なぎさを見ている人々を、なぎさに近い順番に列挙してみよう。ほのか、メップル、その他光の園関係者、あかねさん、志穂莉奈、ラクロス部員、その他クラスメイト、学園の人々、そんなところだろう。実はあまり多くない。光と闇の戦いはなぜか(森の洋館以外)なぎさとほのかの近くでばかり行われているが、日常のお話もきわめて限られた人々との間で行われている。

ほとんどの人:親しみやすいスーパーヒーロー

学園の人々にとってのなぎさは、常に明るく前向きで、抜群に運動ができるスーパーヒーローとして描かれている。ただしそれだけでは小田島友華も似たような範疇に入るかもしれない。小田島と異なるのは、なぎさが気さくでおっちょこちょいだということだ。小田島とは異なり、なぎさは学園内で知らぬものはいないという圧倒的な存在感を持ちながら、しかし声をかけられないほど目の上の存在とは感じられていないということだ。小田島が70年代までのスター性を背負っていると考えれば、なぎさは80年代のアイドル性を備えているとみなすことができるだろう。80年代のアイドルは近寄りがたいと言うわけではないが、近所のおねーちゃんというわけではない何かを感じさせていたように思う。ちなみに90年代(というかおニャン子後かな)アイドルはご近所化している。
ほのかとは異なっているように思えるのが、なぎさは周囲の人が「なぎさといえばおっちょこちょいなスーパースター」という評価で一致するような安定した印象を残しているだろうということだ。例えばほのかは、ユリコにとってはユリコにとってのほのかであろうし、野々宮にとってはまた別の「野々宮のほのか」で、志穂莉奈にとってはまたまた別の「志穂莉奈のほのか」であり、それぞれを付き合わせると「そんな面があったんだ」とそれぞれが驚くような違いがあるように思う。
まあそれも白か黒かあれかこれかということではなく程度の問題である。ほのか印象は、極端に言えばピラミッドのように一歩近づけば印象が変わるという感じで、なぎさ印象はなぎさにかなり近づくまでは平坦であり、かなり近づいてからもそんなに変化の段数が多くないような気がする。
この差が出てくるのは、なぎさが立場や関係性といった外部要因に無頓着であり、下町のおばちゃんのような開けっぴろげさを持っているからだろうと思われる。
もうひとつ差が出てくる理由として、なぎさが辛い時も楽しい時も常に他者に関係の手をのばしているという行動の一貫性を持っているということが挙げられるだろう。たとえば無印第8話がそうだし、無印第16話では学園のマドンナ小田島友華にもほとんどタメ口だし、そもそも小田島に嫌われてるかどうかと思い悩むのは、小田島に好き嫌いを云々される資格があると考える時点で無意識に小田島と自分を同じ地平に位置付けているということだ。キリヤに対してもそうだし、あまり面識が無いはずのユリコに対しても当然のようにユリコの弁当を食べてしまうのがなぎさである。無印第18話では、聖子を無理やりチョコパフェ食べ放題に連れまわすし、無印第45話では自分の音楽センスは微塵も考慮せず千秋と一緒に楽曲を選び、あまつさえ選曲してしまっている。
なぎさが唯一異なる態度を取ってしまうのが藤Pと完全形態のクイーンである。実は神にいちばん近いのは藤Pなのではないかと思う今日この頃。というのもなぎさ視点で進んでいるプリキュアのお話において、なぎさが同じ地平に立っていないのがこの二者だけだと思われるからだ、というのがある。