2 憂鬱な科学部の日々(2)

なぜなら、自分の感受性を相対化できていない

さてほのかは人間関係をうまく修復できないというところまで考えた。では、なぜほのかほどの観察眼を持つ人が、そもそも人間関係を修復しなければならないような状況になってしまうのか。
その原因として二つの側面が挙げられると思う。ひとつは無印第8話を引き起こすことになった側面だ。ほのかは自分の感受性をあまりうまく相対化できない、という側面だ。無印第8話のほのかは、藤Pと話したいけれど話すことが出来ないなぎさの乙女心が全く分かっていない。いや分かっているのかもしれないが「そんなの、私だったら話したければ話をするわ。だって話したいんだもの。別に悪いことでもなんでもないし。なぎさだって話したいと思っているのだから、話せるようにしてあげよう」と考えたのだろう。
藤Pに対するなぎさの気持ちを見抜いているという意味では、ほのかはやはり人の気持ちがわからないというわけではない。ただし、人(無印第8話ではなぎさ)の気持ちがわかるのだが、それで次に何をするのか、次に何がしたいのか、何ができるのかという行動の過程に入ったとたん、ほのかの対人関係はギクシャクし始める。つまりほのかは「私だったらこうする。だってそれが正しいのだから」というように、自分の感受性を絶対化してそこから導き出した結論としての行動を他者にとっても最善だと信じてしまっているのだ。
ほのかが導き出す行動は、多分正しい。藤Pとしゃべりたければ、なぎさは藤Pに話し掛ければよい。無印第18話であれば、キリヤは聖子の手紙を破くべきではなかった。ただし、なぎさやキリヤにはそれでも正しくない行動をしてしまわざるを得ない個別的な事情や理由や意志があるわけだ。
人間が常に正しく生き続けることは、多分とても難しい。やむにやまれず正しくないことをすることもあるだろうし、自分の意志で正しくないことをすることもあるだろう。正しくないということに気が付かず正しくないことをするかもしれない。人には人それぞれの環境があり、それぞれが取り囲まれた環境に制約されて行動している。
ほのかは理の人として、明晰な頭脳と強固な意志を持ち、恵まれた家族に囲まれて常に自分の環境をコントロールすることができた、というか物心ついたときにはすでに意識しないでも環境をコントロールしていたのだろう。だから彼女は自分が思うように振舞うことができた。ほのかはそれと意識しなくても、だいたいにおいて彼女が思うように正しく正直に振舞うことができる。それができるのは彼女が優れているからであり、なおかつ彼女が強いからであり、さらには彼女の環境が恵まれているからである。ただし彼女にとってはそれが空気のように自然なことであって、他者もそうあるべきだしそうなのだとしか思えない。
自身の力と周囲の気遣いの歴史の上に立ち、彼女は常に正しく正直に振舞うことに慣れている。だから藤Pにどうしても話し掛けられないなぎさの弱さを感受することができない。聖子の手紙を破り捨ててしまったキリヤの怒りを感受することができない。ほのかがそれら弱さや怒りに気が付くのは、ほのかが相手に直接拒否を伝えられてからである。そしてほのかは自分の行動が拒否されるという事態に慣れていないし、拒否されたのはほのかが正しくないからではなく正しいからであるため、身動きが取れなくなるのだった。