2 各位の解釈

さて、まず各サイトでの解釈をいくつか見てみることとする。言うまでも無いことは、僕はこれから唯一絶対の正解を読み解こうとしているのではありません。また、各位の解釈のうちどれかが正解でどれかが間違いだということでもない。物語からなにを読み解くかというのは、あるレベルを越えればその先は趣味嗜好の問題になる。ここに取り上げる各位はそれぞれ、そのレベルを越えていると考えています。そしてやっぱり、それぞれの趣味嗜好で解釈がみごとに分かれているのだった。まあ、分かれているから言及しようとしているということでもあるのですが、僕が日ごろ自分の感想についてベンチマークとしている方々でもあるので、細かいところまで見ていくと結構しっかりと分かれていたのだというのは面白い。無印プリキュアのラストはそれ自体込み入っていて、さらに一年間の積み重ねを生かしているので、そうなるんだろうな。説明されていない設定なんかもたくさんあるし。

みちたろさん

http://www.ymg.urban.ne.jp/home/mi1/p01.htmlのみちたろさんです。みちたろさんは機会があればDATTEやってらんないジャン〜♪行進に付き合ってくれそうですよね。

最終話でプリキュア自身がパワーアップすることはあり得ません。(中略)今回動いたのはポルンで、しかもポルンの成長によって本来の力を動かすことができるようになるというものでした。プリキュアの大ピンチでポルンが必死になる(トリガー)→ポルンが自己を客観視し“なすべきこと”を自分の意志で引き受ける(精神的ステップアップ)→より大きな力をコントロールできるようになる(結果)、という形なわけです。ちゃんと精神的成長がはさまっているのがポイントです。しかもこれをクイーンの前でポルン自身に説明させることで、成長がはっきりと可視的になっていました。ポルンがこういう成長を遂げるというのは僕にとっては予想外かつ感動的な展開でした。単なるご都合ではなく完全に理解可能なものとして納得できる、満足感のある解決だったと思います。
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/mi1/p0501.html「1月31日(月) 第49話感想・さらに補足」より

みちたろさんは、旧世代=大人=クイーン及びジャアクキング様と新世代=子供=ポルンをはじめとするプリキュアチーム、との世代交代が最終決戦の主題だったとする。世界には未来を託すべき子供たちがいて、非日常について見ればポルンに世界(光の園)を相続できたからこそ光の園は勝利することができたのだ、という解釈だ(と思う)。世代交代という主題は、決戦後のベローネ学園卒業式ともつながっている(ポルンが光の園の未来を相続したことと平行して、虹の園の住人であるなぎさとほのかはベローネ学園という虹の園の未来を三年生から相続することで、彼女たちが本来いるべき世界の未来を相続したのだ、と論を進める)。
非日常についてみちたろさんは、ブラックとホワイトが個として強くなったからと言う理由で勝利してはならなかったと書いています。

プリキュアが上方へ向かってより強くなったり・より正義になったりしない以上、可能な変化は“横へのつながりが強化される”ということ以外にはあり得ません。したがってプリキュアは、基本的には“成長or覚醒”ではなく“ふたりの絆が強まっていく”物語になり、それによって敵を倒してゆくことになった(後略)
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/mi1/p0501.html「1月27日(木) 普通の女の子の物語としてのプリキュア 」より

ということで、ブラックとホワイト以外の何かしらの外的要素がジャアクキング様を打ち倒す原動力にならなくてはいけなかった。だからここでポルンが光の園をクイーンから受け継ぎ、正当なる光の力の宰領者となってジャアクキング様を打ち倒すことになったのは(予想外だったが)正しい選択だ、と論を進めています。
ここで僕が論を受け継ぐと、光と闇との戦いについてプリキュアたちは最初から最後まで助っ人だったということになるのだと思う。美墨なぎさ雪城ほのかにとっては、虹の園こそ彼女たちが生きるべき唯一本来の世界であるということだ。プリキュアとしての出来事は彼女たちに試練を与えはするものの、そこにいつまでもとどまることは許されていない。彼女たちは番組の主人公でありながら、光と闇との戦いについては脇役に過ぎない。
そのあたりの疎外された状況を中途半端だと思うのか、やはり彼女たちは日常に居ることが本来なのだと思うのか、そのあたりで評価が割れているのだと思う。ということで、ポルンを受容するかどうかという問題提起はキャラクタ個々に焦点をあてた場合の立論であって、物語の流れに焦点をあてた場合には「光の園ドツクゾーンの戦いにおける主役は誰だったのか」をめぐる評価だったということになる。

いっしゅうさん

http://www.geocities.jp/isshuu_a/index.htmlのいっしゅうさんです。無印総括ではいっしゅさんのベスト感想にほぼプリが選ばれなかったので、マックスハートでは選んでもらえるように日々精進しています。いっしゅうさんも最後にポルンを持ってきたことを正しいと書いています。何度も書いているけれど僕もそう思います。「闇も光も難しいことは関係ない。プリキュラが好きだから、プリキュラをいじめる者は許さない」という超ストレートかつ原初的な気持ちの絆を億面無く言い切れるのはポルンしかいない。絆こそ最強という「ふたりはプリキュア」の核心を鮮やかに浮かび上がらせることになっていると思います。

前回番人とポルンが助けてくれたこと、キリヤが助けてくれたこと、クイーンが信じ続けていたこと、それらがプリキュアを中心に全て集まり、プリキュアはそれに応えます。それぞれに「ありがとう」というプリキュアの態度もまた他者への感謝を表します。手を繋ぐという物理的な繋がりとともに、想いや意志という精神的な繋がりを包括した強さです。
最終話感想http://www.geocities.jp/isshuu_a/precure030.html#lcn002より。

いっしゅうさんは、みちたろさんに比べると表記上ではプリキュアたちとポルンを同格に論じている(文字に現れる以前の気持ちにおいては同じかもしれない)。ポルン以外にも、番人、キリヤなども同格である。というのも、いっしゅうさんはプリキュアにおける絆の絶対性に着目しており、プリキュアにおいて絆は対等な関係に懸かる橋だからだろう。敵であるドツクゾーンでの関係が主従を中心とした関係であり、それに打ち勝つ物語なのだから、光の園側が平等を原理とするのは、プリキュアたちがジャアクキング様に打ち勝つためのひとつの回答である。園平等性を明確にするという意味においても、光の力の宰領者を大人であるクイーンから仲間であり子供であるポルンに引き継がせたのは正しいだろう。無印第26話でクイーンはプリキュアたちの肩に手をかけて力を貸した。プリキュアたちはクイーンに承認されたわけだが、そのあたりが無印前半の物足りなさにつながっているのだろう。第二次決戦ではポルンとプリキュアたちはお互いに感情で結びついており、なおかつジャアクキング様を倒したのもチームとしてのプリキュアたちだったと納得できるようになっている。
ただしプリキュアたちは、平等な関係の中での代表者という位置に立っているのだ、といっしゅうさんは見ているのだと思う。周囲の人々との絆を正しく結んできたプリキュアたちは、登場人物たちの絆の中心に位置しており、人々の思いを集めてジャアクキング様へぶつけることができるのは彼女たちだけであるということが特権的なのだと論じている、のだと思う。

ひでさん

http://hide2015.hp.infoseek.co.jp/index.htmlのひでさんです。ひでさんのカラオケ暴走にはどうやっても多分敵わん。でも毎度DATTEやってらんないジャン〜♪行進にお付き合いいただきありがとうございます。今度はめげないGirls Be Anbitious!からイェ〜〜〜ィダンスお願いします。

一晩寝かせて冷静に考えてみると、この最終話は「なぎさとほのか」のお話の最終回では無くポルンとキリヤのお話の最終回であったと考えると合点が行き、そういう面から見るとまとまってたし盛り上がってた話でもありました。(中略)
ポルンとキリヤを主軸に据えた光と闇の世界の自立を描いた無印最終回はこれにて終わり。
http://hide2015.hp.infoseek.co.jp/purkansou49.htmlより。

という感じで、ひでさんはなぎさほのかの最終回はマックスハートまでお預け、という読み込みをしている。これはみちたろさんの節で論じた「光の園ドツクゾーンの戦いにおける主役は誰だったのか」をめぐる評価の差が出ているのだと思う。プリキュアたちは最後まで助っ人だった。プリキュアたちが主役になってほしかった、という思いが強い場合、物足りなさを感じるのは当然のことだと思う。だって助っ人程度の働きだと言えばそうなんだから。

何だかんだ言ってきましたがこれも愛ゆえなのです…(;´Д`)
そして来年もなぎさとほのかのラブラブさで萌えさせて頂きたく思う所存(後略)
http://hide2015.hp.infoseek.co.jp/purkansou49.htmlより。

と書いているひでさんですからね。なぎほの中心で最終決戦を見ていた方にとってはやっぱり引っかかりが残るものだったと思います。まあとはいえ、これは一面キャラクタが生きていて、それぞれ存在感を感じさせるまで描くことが出来ているという意味で「ふたりはプリキュア」のすごいところだと思います。なぎさほのかだけではなく、ポルン、キリヤがラストを飾っているのだと感じさせてしまうほど、各キャラクタが厚みを持つぐらいちゃんと描かれたと言うことなのだと思う。

ぷらとーさん

http://sakusaku.sakuratan.com/のぷらとーさん。

クイーンや長老は言うに及ばず、石の番人まで「もうダメだ〜」を連発する、その姿はダメな大人の象徴。そんな中、たったひとり「ぷりきゅらを助けたい」という決意をしたのがポルン。(中略)
 あきらめなければ、希望を捨てなければ、どんなものにだって勝つことが出来る。
http://sakusaku.sakuratan.com/2005_01.htmlより。

ということで、この部分だけ切り出すとぷらとーさんが大人対子供という軸を採用しているように見えるのだが、無印第49話感想を全部読むとそういうわけではないように思う。無印プリキュア最終決戦に関わった大人たちは「あきらめる人」を象徴し(クイーン除く)、子供たちを「あきらめない人」の象徴であるとして、ぷらとーさんはあきらめる人とあきらめない人との差をここに見ていたのだと思う。

dokoiko

ブラックとホワイトは、なぎさとほのかはヒーローじゃない。彼女たちはヒーローではなく、周囲の仲間たちをヒーローにするという意味でのヒーロー、すなわちメタヒーローなのだった。
id:dokoiko:20050130より

最終回でようやくポルンは自らの力で成長した。クイーンは子育てに成功したのだった。いや、あれが育てているといえるのかどうか断言しにくいのだが、まあそういう自立をうながす親の子育て物語なのだった。
id:dokoiko:20050131より

という感じだ。こうして自分が書いたものを読み直してみると、1月の時点でid:dokoiko:20050525「トレンディドラマとしての無印プリキュア」で書いたように、成長しない普通の人としてのなぎさとほのかという視点を持っているようにも見える。とは言えこのころはまだなぎさとほのかが成長していると書いている時期なので、僕の視点もあまり意味が無いというかよく見通せていない。
マックスハートに移ってから、九条ひかり九条ひかりとして成長しているのを見るに従い、無印でのなぎさとほのか(ブラックとホワイト)が実は成長していないのだというのが良く分かる。
(続ける)