5 私の始まりと世界の終り

ここまで書いて「あ〜たくさん書いた〜」と校了感でいっぱいだったのだが、床でのうつ伏せ寝*1から目覚めて読み直してみると、論考のタイトルに言及していないということに気が付いた。相変わらず書いているうちに話がずれた。
今回友達であるということを奈緒美羽とお互いに確認した九条ひかりは、これまで閉ざされていた世界への扉を開いたのだった。ということでこれまで書いてきたのは、奈緒美羽と手をつないだことにより、九条ひかりは家族を越える絆を確かにつかんだ。それを越え、奈緒美羽を通じて世界に生きる多くの人々を信じる手がかりを得た。で、それによって今後ルミナスとして戦う決意がはぐくまれてゆき、強くなるだろう… 実際に書いてしまったのはそうまとめることができるだろう。しかし、それは今回MH第15話の出来事を通じて九条ひかりシャイニールミナスにもたらされた効果に過ぎない。
根源的なことは、世界とつながる自覚を持つということは「わたし」が世界内存在ということを自己諒解するということだ。世界は私の一部であり、私は世界の一部であり、私も世界も等しく大切なものなのだと理解することだ。九条ひかりはこれまでの「私と家族の九条ひかり」から「私と家族と世界の九条ひかり」へと生まれ変わった。それを世界から見ると、世界にとって今回九条ひかりを初めて認知したことになる。世界からは、九条ひかりはMH第15話で存在を始めたように見えるのだ。と同時に、私という認識は世界との相互作用で形成されるわけで、九条ひかりにとってMH第15話は「世界を含む、拡張された私の始まり」となる出来事だった。
ということでサーキュラスが「虹の園もやがては消滅する」と告げたとき、九条ひかりにとってそれは私が殺されることと同じ意味の重さを持って感受された。世界の終りを自分のこととして感じてしまったということだ。私が世界を含んで拡張されるということは、奈緒美羽との関係のような命のきらめきを感じることと、世界の終りを自分の終りのように痛みとして感じることの両者を含む。
それが、世界に生きるということなのだ。

*1:またうつ伏せ寝の季節がやってきました。