冬、夏、春。

日曜日に岡山で用事がある。後一時間ほど後、僕は夜行バスに乗っているだろう。夜中の闇を切り裂いて走るトレーラーに次々と追い抜かれながら、夜行バスは夜の高速道路を制限速度で走り抜けて岡山にたどり着く。それから僕は朝の岡山をすり抜ける。尾道へ。

それはいつのころだっただろう

西暦がまだ2000年を迎える前、まだブログが存在しなかったころ、僕はあるメーリングリストに登録していた。いろいろな先生たちと先生を目指す学生たちとかつて先生だった先達たちが集まっていた。そこには先生たちが先生として、教師として、人として潜り抜けてきた数々の実例があった。そしてそこに彼女がいた。
僕はずっと投稿を続けた。3時4時に投稿することはあたりまえだった。そしてキーボードの手前で眠り、仕事に向かい、また投稿した。
そこにはいくつかの喜びがあり、理解があり、誤解があり、悲しみがあり、同情があり、共感があり、反発があり、怒りがあった。ようするに、われわれはがやがやとした雰囲気の中で総体的には楽しくやり取りを続けた。一週間で200通の投稿があり、それがずいぶんと続いた。
そしてひとつの投稿があり、誰もが思わぬ力学を生み出した。一週間とんでもなく逼迫したエネルギーが放出され、そしてその場所は突然死んだ。僕は幾夜を徹して参加者(実質的にはその時点ですでに誰もが元参加者になっていたが)たちへ個人的にずいぶんとメールを書き、もう一度やり直そうとメーリングリストを立ち上げた。そしてもう一度、かつてのあの場所を作り上げようとした。
でも結局、そのような試みに力を合わせようとする人たちだけでは、あの場所を再興することはできなかった。異なる温度を持つ異なる立場の異なる人々がいて、あの場所ははじめてあの場所になるのだ。それに新たに集まったわれわれの胸の中には、まだつい今しがたたち現れて生々しく匂い立つ死の気配がはっきりと根をおろしていた。その死の気配はわれわれを優しく包み、そしてわれわれはその死の気配を断ち切ることができなかった。
その後何人かの元参加者たちと僕は個人的にメールのやり取りを続けた。半年の間、毎日彼/彼女たちと僕はメールの往復を続けた。そして最後に残ったのが彼女だった。

それから何年かが経ち

僕と彼女は京都ではじめて顔を合わせることになった。寒い寒い冬の日のことだった。京都は僕と彼女とのちょうど中間点だった。われわれはお互い何時間かをかけて中間点にたどりついた。
彼女はカスミソウ色のコートをまとっていた。

バスに乗る時間が近づいているので

ものすごくはしょるが、その3年後に僕の住居に近い駅で彼女と食事をした。暑い暑い夏の日だった。そして明日、こんどは彼女の住居に近い尾道でわれわれは三度目の食事をするだろう。
はしょったところはそのうち書こう。