野次馬根性

僕はいずみのさんが書いている文章の内容はわからない。でもいずみのさんの文章がなぜ誰かに攻撃的なコメントを残させてしまったのかについては知っている気がする。おそらく誰かを攻撃的にさせた点はふたつある。ひとつはいずみのさんの文章が逃げを打っているように感じられることだ。言い換えるといずみのさんの文章態度の問題である。もうひとつはいずみのさんの文章にはあいまいに解釈できるキータームが多く含まれていることだ。
もちろんいずみのさんは真摯に対応しようとしているのだろうと思う。近鉄阿倍野プリキュアショーをいずみのさんとご一緒した経験から言うと、いずみのさんは一を言うのに五を考えるような人物だし、アニメど素人の僕にも丁寧に対応する紳士的な人物だ。僕はいずみのさんをその点で信頼できると思っている。
しかし思うに、今回いずみのさんが書いている文章は、いずみのさんが持つ真摯な気持ちや真剣さがうまく表現できていないように感じる。それはたぶんいずみのさんが今まで読んできた文章がそうさせてしまったのだろうと考える。いずみのさんがどのような文章を読んできたのかはよく知らないが、大阪で育てば大阪の言葉を覚えるように、自分が好んで読んできた文章のスタイルは自分の文章のスタイルに影響を与える。読んだことの無い文章は書けないのだ。いずみのさんは論理で隙間を詰めていくような感じの文章を書いているように見えるのだが、今回のように幕を引こうとするときはそういうスタイルが腰の引けた言い訳に見えがちになる。いずみのさんがどう考えているかではなく、いずみのさんの文章がそういう感覚を読者に感じさせるということだ。
第二の点について言うと、ヴァルネラビリティなどという単語を頻発させるいずみのさんの文章が最もヴァルネラブルなのだと思う。日本語として日本語使用者たちの日本語共同圏に根を下ろしきっていない単語や言い回しをつかうと、書き手や一人一人の読み手が自身の言語経験に従ってその単語や言い回しを解釈することとなる。同じ単語を使っていても、違うことを話しているということになれば、当然理解は位相をずらすことになり、それはきしみを生み出すこととなる。新奇な語彙を使用するときには注意深く読みの偏差を考慮しなければならない。事前の定義をできるだけ詳細にして、意味を限定しておいたほうが良い。また以下は僕の好みの問題になるのだが、事前の定義を詳細にしなければならないような単語は使わないほうがよいのではないかとおもう。
まあしかし新奇な単語というのは便利なものでもある。自身が指し示そうとする何かが既成のどの日本語にも当てはまらないような場合、日常のあれやこれやが染み付いていない単語を使うことでそこに自身が感じている何かを埋め込むことができる。それは日本語が古代から連綿と続けてきた営みである。日本語それそのものが外来語を絶え間なく意識的に輸入しながら語彙を拡張してきた言語であり、明治からはまたそれとは別の意匠を目指して外来語が輸入されている。ぶっちゃけ横文字を多用するとワナビーさんたちが寄って来るわけで、いずみのさんの文章は(例えば僕の文章に比べ)いろいろな背景を背負った人たちの目にとまるわけだ。読者層が広がれば、それだけちゃんと意味が伝わらない誰かが増えるわけで、反発を受ける格律も高まる。でも新奇な言い回しを使うかどうかは選択の問題で、そういう層に反応してほしいと考えて新奇な単語を多用すると言う選択肢は確かに選択肢としてある。ただいずみのさんのピアノ・ファイア該当部分(id:izumino:20040819, id:izumino:20040820)にコメントされている方々がワナビーだと言うわけではない。あの場でわざわざ火の粉をかぶるような人々はワナビーじゃない。
ところでこれを読んだ人のうち「お前もやってたじゃん」と突っ込んでいる人が何人かいるかもしれない。やってました。だって集まってくるんだもん。ニーチェがどうのとか僕が書いているときは、アクセスは今の何倍かはあった。ほぼプリを一時期ちょっとだけ休みかけたときに、かなりの数の人々にほぼプリを見放されたということもある。しかし僕がほぼプリ文章のスタイルを「かろやかに(というのは主観だが)意味の表象にたわむれる」ようなものから「ひたすら(というのも主観だが)狭い穴を掘る」ものに変更しているということも、アクセスの減少に多少関係しているように思う。