bluefieldさん

bluefieldさんというか、コメントを寄せているyokiさん

よくわからないのは、セーラームーンから変わってないということ。フォーマットとしてこういうのがあるってのはわかるけど、もうちょっと違っててもいいんじゃないか…オタクは変わらないって某監督言ってたけど、やっぱそうなのかな(id:bluefield, I don’t concern.の2004-05-26コメント欄)

僕はセーラームーンを見ていない。なぜセーラームーンには突き当たらなくてプリキュアに突き当たったのかというあたりを書くことができれば答えになるかもしれないのだけれど書けません。僕の嗜好としてはウソ臭い身体造形がダメなのかとも思うが、それは全く普遍性を欠く単なる趣味の話だしね。変わらないという話で言えばいつの時代にも小学生は居るわけで、時代時代の小学生に向けて同じ枠でモノを出せばあまり変わらないというのも悪くないと思う。あと何度も出している村上春樹はデビュー作以来25年同じことだけを書いていて、フォーマットも羊系、世界の終わり系、ねじまき鳥系の三つしかない。では村上にとって書く意味がないかといえばそうでもなくて、読者にとって読む意味がないかといえばそうでもない。水戸黄門だってちびまる子ちゃんだってサザエさんだってみんなみんな続いているんだ番組なんだーというわけで、プリキュアについて言うと古い皮袋に新しい酒を注いでおけば、とりあえず安心して手にとってもらえて飲めばオヤと思わせることができるわけだ。でもその古い皮袋のおかげで僕のようなド素人が参加できたりするわけです。ところで「男性性を喪失した男性オタク」はほんとうに増えているのだろうか。いままでまんがやアニメのマーケッターたちや作り手たちにただ見えていなかっただけで、そこに膨大な金鉱があることを発見しただけだということはないだろうか。受け手の側もそのような作品が出てきたことで自らの内なる嗜好を発見しただけだということはないだろうか。まあ「、「人はだれでも分かり合える」とか「書をすて町に出よう」とか、余計なお世話ってだんよ、とネットの真ん中で叫びたいわけですよ」というのには異議なし。どうでもいいことだが「書を捨てよ町へ出よう」です。

# bluefield 『ほら、たしかに最初、ここは「私」一人称のように、あえてアニメ的でない言葉でアニメを語るという思索実験(大げさ嘘いつわり)の場所のつもりだったわけですよ。「あえてやっていた」と。でも今では、自分でも本気度が高くなって、そういうつもりはないぜ、と。』

という一文はある種の人々に届く言葉で、「〜でない言葉で〜を語る」というのはニューアカとかポストモダーンを自称する大多数(少数の本物を除いて、というか本物たちはそんな自称をしないしする必要もないのだが)が陥った泥沼だった。それもbluefieldさんとは違いまじめにやった。めくるめく差異の表現ゲームをやったわけだ。きれいに事象を説明するのはそれはそれとしてひとつの芸だが、それで何? という言葉を乗り越えられなかった。本気の人にとって、表現ゲームなどどうでもよいわけだ。とは言え別の種類の人々の中でも本気で表現をしようとする人は本物を目指してがんばってほしいなと。