「しむ」さん

4月27日と30日でふたりはプリキュアというアニメがどうしてふたりはプリキュアになったのかを考察していらっしゃいます(simのプリキュアンダイアリー(id:sim)の2004-04-272004-04-30)。『明日のナージャ』の不振をドリルダウン分析し、その対極として『ふたりはプリキュア』の基本線が決まったというのは説得力がある。しかし思うのはなぜナージャ企画時点で不振が想像できなかったのかということだ。

またなぜ主人公がふたりなのかということもそのとおりで、他の方々からも指摘があったと覚えているのだが主人公が二人という関係性をドラマとして描くのは難しい。それでなぜ二人なのかということで決して女子中学生を口説いたりしていない塾の教室長としての僕が思い当たることは、今の子供たちは基本的にふたりセットで動くことが多いということだ。異性同士で恋人ごっこをしている子供はまあふたりなのも当然なのだけれど、同性同士でもふたりで動くことが多い。それがどうしてなのかを実証しようとは思っていなかったので感想でしかないのだけれど、親友がn人増えればかなり複雑になる多対多の人間関係を編んでいかなければならないのがめんどくさいのではないかなと思ったりする。n人とした意味が無いという突っ込みはやめておいていただきたい。もしくは幼少時に多対多の友人関係に投入される機会が少ないというのもあるかもしれない。
僕が小さい頃は近所のお兄さんお姉さんと遊んでいたのだけれど、ローティーンになることには同学年の知り合いと遊ぶのがデフォルトになっていたように思う。

ふたりはプリキュア」がリアルであることをひとつの主題としているように思うので、そのあたりも今の子供たちのリアルを描こうとしているのではないかと思ったりするのだった。二人という関係でどれみのような終わらない日常(という言い方も古いが)を描くのはたぶんきつい。ということで物語を持たせるため半ば必然的に敵が登場する正義ものになったのではと思ったりする。