4 Bパート〜大人への扉

 「ふたりはプリキュア」が目指すのは、普通の中学生(女の子)の成長課題を具体的に描くということだと思う。セーラームーンのようにありえないスーパーモデルスタイルでもなければ、次から次へといろんな出来事が起きるわけではない。どれみのようにくりくりかわいくもないし日常世界がおとぎ話のように描かれてもいないし、異世界の人たちと交流するわけでもなければ異世界を行ったり来たりするわけでもない。なぎさとほのかは造詣もまるで普通の中学二年生で生活もある意味しみったれたようなごくごく普通の中学生だ。風景もまったくほんとに何の華やかさもないリアルな世界として描かれている。ふたりはプリキュアである以外まったく「この世界」に住んでいる。プリキュアである以外、なぎさとほのかは何から何まで徹底的に我々と地続きの日常を生きているのだ。そのように徹底的な日常であれば、なぎさとほのかはクラスメイトである以外何の接点もないままで終わるだろう。リアルなこの世界に生きている中学生たちがプリキュアになることはない(はずだ)から、なぎさとほのかが実際に存在したとしても物語は生まれない。

 生まれてから思春期を迎えるまで、人間は自分が自分であり他者が他者であるということを知らない。世界は自分のような人が住む自分の世界と自分ではない何かがすむどこか自分ではない世界であり、二つの世界の間は深くて暗い河で断絶している。自分の気に入らないことは自分の世界から締め出してしまえば、それにともなう不都合は大人たちが良きに計らって自分の世界を守ってくれる。結局自分から見れば自分の世界は自分の思うようになり、他者は自分とは何の関係も無い何かでしかない。それは実は「他者」ではなく「何か自分とは関係ないモノ」でしかない。

 しかし大人になった人間が住む世界はそのようではない。他者を自分の世界から排除しきることなど出来ない。かといって自分の世界に関係を迫る存在がすべて自分と同じ何かとみなせるほど他者は自分に従順ではない。大人を長くやっていればそのあたりは適当に諦めたり努力したりしてやりくりする術を身に付けるし、他者は自分ではないからこそ面白いということに気が付いたり、それでもやっぱり辛いときは辛いなあと落ち込んだりするのがまあ人生なのだなあやれやれと言いながら日常を維持していけるようになる。

 中学生という年代は、おそらく結構多くの人たちにとって初めて他者が他者として自分の世界に食い込んでくるような時期であり、食い込んでくる他者を好意をもって受け止めるとすればそれは恋心を抱く異性であり(なぎさにとっての藤P)、違和感で受け止めれば自分と違う世界に住んでいる同性(なぎさにとってのほのか)ということになるのではないだろうかと思う。しかしまあ恋心の対象というのは中学生ぐらいでは明確な他者とは言いがたいところがあり、特に初恋であればほとんどのところ自己理想の投影対象でしかない。また恋愛という事象は他者との強力な一体化欲求を解放する手段でもあり、他者という概念を排斥し完璧に閉じた世界を構築しようとする力学が支配しがちだ。それ以前にまあ、日曜朝8時30分枠のモチーフじゃないな。

 大人になるということのひとつは、自分を取り巻くさまざまな関係者たち(特に自分と違う人たち)をそれぞれ自分をめぐり適切な位置と距離に配置し、その位置と距離を適切に調整しつづけることができるようになるということだろう。なぎさの場合、プリキュア同士になってしまったという運命の強制力によって初めてほのかという決定的な他者を自分の世界地図の上に配置しなければならなくなったのだ。なぎさの地図には志穂莉奈がいて、ラクロス部の仲間たちがいる。彼女たちとほのかをどのように配置し調整するかという課題は、なぎさがおそらく初めて体験する苦労になるだろう。それは上手くいくかもしれないし、上手くいかないかもしれない。しかしなぎさがこの課題に直面し、悩み、試行錯誤を経ながら、彼女はだんだんと大人になっていくのだ。なぎさにとっては彼女がこれまで構築してきた「ほのかのいない過去」をいかに「ほのかを含んだ現在」へ組み替えていくのかというのが、今後の大きな課題となるだろう。

 ほのかはやはりそれとは正反対の課題を与えられることになる。ほのかはあまりに描写が足りないという批判は正しい。なぜなら彼女には過去がないからだ。彼女の両親は海外勤務中でお家にはおばあちゃんと犬しかいないというのは、ほのかにとって対立すべき大人が身近には存在しないということだ。さらに学校でほのかはつねに単独行動であり、それはつまりなぎさとプリキュア同士になることについて考慮すべき現在の関係が何もないということだ。おそらく過去にもともだちという存在がほのかにはない。ほのかにはやはり過去がないのだ。過去がないということは、なぎさとの関係を構築するに当たって何のモデルも存在しないということだ。それはそれでなぎさと別の意味において大きな課題となる。なぎさとの何もかもがほのかにとっては初めての体験である。自分以外に何も存在しないという意味では完璧なほのかの世界になぎさという異物が入り込んでくる。それはアダムとイブの物語における知恵のリンゴなのであって、これからほのかは経験に頼ることなく人間としての未来(なぎさとの関係)を組み立てていかなければならないのだ。

 ということで、これまでほのかの描写がほとんどないというのはまあ当然といえば当然のことなのだと思う。この物語は(今のところ)なぎさの物語であり、なぎさにとってほのかは想像もできないぐらい遠い存在なのだから。しかし今後なぎさとほのかがお互い歩み寄っていくのだろうから、だんだんとほのかがどのような人物なのかということが明らかになっていくだろう。なぎさにとってほのかという存在は受け入れられるところもあれば、受け入れがたいところもあるだろう。志穂莉奈とほのかに板ばさみになることもあるだろう。それを何とかしようとしているうちに、なぎさは大人への階段を登り始めることだろう。またほのかも迷い傷つきながら、なぎさとは反対側から階段を登り始めるだろう。

 そして階段を登るふたりがお互いの姿を見つけるだろう。それから同じ階段を登るのか、別の階段へ分かれるのかはわからない。しかしほのかはなぎさの心を他者へと開く扉としてなぎさの一部となり、同じくなぎさはほのかの一部となるだろう。そしてふたりはプリキュアでなくなってからも(それは彼女たちが大人になり始めたということなのだろう)後ろを振り返ることなく階段を登りつづける事だろう。

エンディング〜 ぁあ〜〜〜〜っ Let's go! Get you! L O V E らぶらぶ げっちゅ!…