5 否定から始まる物語

id:dokoiko:20060517から続く。先代プリキュアが登場人物を絞ったことでお話の密度を上げたというのは周知であろう。主役はふたりだけ。九条ひかりはあのお方と対になって、MHのストーリーを背負った。九条ひかりが日常で主役となった話数はごくわずかだった。準主役も志穂莉奈と家族など片手で足りるほど。先代プリキュアは多数の人物によるお話の水平的拡大ではなく、少数による垂直的積み上げを行っていたわけだ。
先代プリキュアにおける垂直的な構造は、登場人物の数だけではない。エピソードおよびストーリーの構図も同じである。ほとんどの場合においてお話は否定から始まり、そこからドラマが展開して解決に至る。以下、昨日も使った下記の図を参照してください。

入れ子の対立

なぎさの内面における否定と受容(図の白いあたり)

始まりはなぎさのプリキュアおよびメップルの否定、ほのかの否定があった。これらはなぎさの個人的な立場におけるお話である。これを第1のストーリーとしよう。このような個人的な立場をまず整理するところからストーリーを組み立てていったところが、「プリキュア」という番組が独自性と真摯さを持つに至った理由だろう。

個々の敵へ向けられた否定(図の黄色いあたり)

なぎさの立場が固まるにつれて、ストーリーは個々の敵への否定へと拡大されてゆく。これを第2のストーリーと言おう。第2のストーリーはまず第5話のほのか(ホワイト)対大先生からはじめられた。第8話で第1のストーリーが収束したことで、なぎさの内面における否定のドラマは収束した。そして第2のストーリーはゲキドラ−ゴ対ブラックにて収束する。

敵の側から語られる否定

次にストーリーは視線が逆転し、今度は敵の側から語られることとなる。この第3のストーリーにおいて、主役はポイズニーとキリヤだ。否定の権化としてのポイズニーがストーリーの本筋を引き受け、否定と肯定との間を揺れるエピソードを引き受けたのがキリヤだ。
ドツクゾーンが否定を止めるわけにはいかないため、キリヤがこちら側に寄ればポイズニーはそれだけ強くプリキュアたちを否定しなければならない。最終的にポイズニーの必死さとキリヤの苦悩を知ることで、プリキュアたちの否定は個々の敵を超えてジャアクキング様およびドツクゾーンそのものへと向かうことになる。

否定することそのものへの否定

ということで、無印前半の決戦にあたり、プリキュアたちは否定することそのものへ視線を向けることになる。ここでようやく、彼女たちはある程度普遍的な世界を引き受けることとなった。
ストーリーの主軸が個人的な場所から徐々に普遍へと移動してゆくのだが、彼女たちにとって闇と戦う理由はずっと個人的な立場でありつづける。これが説得力をもつのは、日常のストーリーを積み重ねているからだ。

新たなる異物〜ポルンの否定

闇との戦いが一旦振り出しに戻った無印後半は、まずポルンを巡る否定と受容がストーリーとして浮上する。環境の変化を受け入れるにあたり、なぎさは対象と情緒的な絆を結ばなければならない。だからポルンが登場すれば、必然的になぎさとポルンは対立することになる。ということでこのストーリーは第32話「ポルンを励ませ!とっておきのカーニバル」で劇的な和解が行われる。
と同時にこの第32話ではジャアクキング様が復活する。ポルンをめぐるストーリーがこの話数で決着するわけだから、新たなストーリーが始まるのは当然ということになる。

ストーリー整理月間

というか、本番一週間前であのリハーサルはあり得ない…… 第33話から第40話までは日常話を重ねることで、周囲の人物たちとの絆を深める時期であった。プリキュアたちが世界の宿命に対抗するための理由を、ここで強く打ち出しておくためだ。また、ここでジャアクキング様の巨大さを打ち出さなければ、以後展開される分身たちの裏切りが盛り上がらない。

分身たちの反乱

第41話から第48話までは、分身たちがジャアクキング様による支配を拒否するというストーリーだった。プリキュアたちはお互いの絆を確かめ合ったり、藤P問題が終了したり、合唱コンクールを乗り越えたりした。

あきらめない力

で、無印の最終決戦でのプリキュアたちは、ここではじめて否定というテーマを逸脱する。第一次決戦ではジャアクキング様と理念をめぐって問答を行ったが、最終決戦では語り合わない。プリキュアたちにとって、否定の親玉であるジャアクキング様に否定をぶつけても、それはジャアクキング様と同じ事をすることになる。あきらめないから彼女たちはジャアクキングの前に戻っていったし、キリヤは宿命に逆らうこととなり、ポルンはポルンでがんばったのだった。彼女たちにとって、ジャアクキング様の言う宿命に対してあきらめずに立ち向かうことこそが課題となっていた。
というか、おそらくぎりぎりまで中心課題となっていた「自分のためか、みんなのためか」という神学について、プリキュアたちに回答させないという演出だったのだろうと思う。「ふたりはプリキュア」という番組のテーマは、正しい理念を持つことではなく今を一生懸命生きることだ。決戦までは敵がなぎほのの具体的な日常を侵犯してきたため、彼女たちは日常を守るために結果として敵を退けていた。しかし決戦では、彼女たちがドツクゾーンに入り込む。だから具体的な何かを守るという構図が崩れている。だから具体的な日常と切り離されたドツクゾーンでの「防衛戦」は、彼女たちにとって「世界を守るために戦う」という理念に変質せざるを得ない。
ということで、彼女たちが時空の裂け目に落ちてこの世界に戻ってきたのは、必然が偶然を呼び寄せたのだと言うことができるだろう。彼女たちは守るべきものが具体的に感じられるときにこそ、力を発揮するからだ。
ていうかぶっちゃけ、無印の最終決戦において「世界」は視野に捉えられていない。あくまでも「あきらめない」という彼女たちの気合の問題であり、宿命に立ち向かったキリヤのためであり、ブレスを届けてくれたポルンのためであり、つまりぬくもりのある具体的な絆のために戦うのだった。これは無印での対立図式が「世界の運命を握るドツクゾーン」対「日常を大切にするプリキュアたち」に設定されていたからだ。
プリキュアたちが自身の内に無限の可能性を見出して真に成長を遂げるには、まだあと1年の年月が必要だった。
(多分まだ続くと思われますが、一旦間を空けるということで中断みたいな。)