上北版と映画版

(途中ややネタバレ感のある節があります。その節には(ネタバレ)と書いておきます。しかしこの文章を読もうとする方々は、おそらくすでに映画をご覧いただいているものと思います。この文章を出張所に持っていくのはあまり適切ではないように思えます。ご注意ください)
id:dokoiko:20051217にて「上北版と映画版における主題の相違」という文章を書いた。後日、ほぼプリに初めて書き込みという書き出しにてまるっささんという方からコメントをいただいた。こんな文字だらけのサイトに訪れていただき感謝します。まして当日分だけかもしれないが私が日々無駄に命を注ぎ込んで報われることの無い駄文を読んでいただきありがとうございます。
以下まるっささんのコメント全文を転記するので読んでいただきたい。この後に私が続ける文章はまず、まるっささんの以下コメントに対して書かれるものだからである。

# まるっさ 『初めて書き込ませていただきます。僕自身は漫画どころか予備知識ゼロで観に行ったものですから、全てがテレビではまず観られない&やって欲しかったイベントの連続で、それだけでも充分楽しめた感じでした。ホント泣いたり笑ったりで忙しく非常に充実した70分でした。
ところで水を差すようですが、原作とそのアニメ化の関係なら判るのですが、そもそも言わば映画宣伝用にコミカライズされたものを一つの作品として原作である映画版と対等に扱うべきなのかがかねてよりの疑問だったりします。
僕も2回目の映画鑑賞後にコミカライズ版を購読しましたが…やたらセリフが多く説明的で…正直パンフレットを観てるのとあんまり変わらないような気がして…これを一つの作品として採り上げる価値があるのか甚だ疑問だったりします。』 (2005/12/20 01:00)

コメントから分かること

このコメントから分かることを確認しておく。まるっささん(以後「彼」と表記させていただきます)の立場は、映画版をとても評価していると思われる。「僕自身は漫画どころか予備知識ゼロで観に行ったものですから」というのは「全てがテレビではまず観られない&やって欲しかったイベントの連続で、それだけでも充分楽しめた感じでした。」の理由を示しているとは読み取りにくい。予備知識ゼロであるかそうではないかとの条件とは独立して、テレビではまず観られない&やって欲しかったイベントというのは存在するのだから。
ただし彼がそれぐらい映画版に強く感動していると読み取ることは可能である。また「ホント泣いたり笑ったりで忙しく非常に充実した70分でした。」という一文からも、彼が映画版を非常に高く評価していることが分かる。
そこから話はまんが版へと移ってゆく。「ところで水を差すようですが」と彼は書いている。まさかとは思うが、私がこの一週間書いている文章を彼は読んでいるのだろうか。映画版を評価すると書いている彼なのだから、私が映画版について書き連ねた文章を読んでいるはずだ。ましてやコメントをしていただいている。私のサイトにコメントをしようと思うということは、私が反応することを多少なりとも期待しているはずである。他者のサイトにコメントするということはそういう行為である。まず私が何を考えているかということを、当然彼は私の文章を一通りは読んでいるにちがいない。
私はid:dokoiko:20051210からずっと映画版の事ばかり書いている。さらにid:dokoiko:20051215では「上北版から映画版へ改変された理由」と題した文章を書いており、私が個人的には上北版(まんが版)よりも映画版に強いコミットメントを示している。さらに彼のコメントは12月20日であり、これは私がhttp://precurized.hp.infoseek.co.jp/の2005/12/17に「僕は(中略)映画版のほうに惹かれている」と書いた文章を載せたあとである。
さらにコメントいただいた当日には「使徒たちが体験したキリスト受難及び復活〜映画版マックスハート2論考(4)」と題して、こともあろうにプリキュア映画とキリスト受難復活の物語を比較しようとしている。プリキュアファンからは「頭おかしいんじゃないの」と言われるかもしれない。キリスト者からは「我が永遠の同伴者であるあのお方とアニメ風情を同列に並べるなどもってのほか」と言われるかもしれない。さらに多くの人からただ放置プレイされるかもしれない。そういう文章をそれでも書かざるを得ないほど映画版について言いたいことがあるのだ。
ということで私が上北版よりも映画版を評価していることを彼に読み取っていただくには十分だと思う。これに対して「ところで水を差すようですが」と彼はコメントを続けている。まあこれも、彼が映画版を評価し、まんが版に対していいたいことがあふれている精神状況を表している、と解釈する。

まんが版と映画版の関係について(ネタバレ)

彼は続けてこう書いている。「原作とそのアニメ化の関係なら判るのですが、そもそも言わば映画宣伝用にコミカライズされたものを一つの作品として原作である映画版と対等に扱うべきなのかがかねてよりの疑問だったりします。」
まず事実関係として、これが正しいかどうかを検討しなければならないだろう。「映画宣伝用にコミカライズされたもの」がまんが版なのかどうか、である。彼の言を補えば「まんが版は映画を宣伝するために、映画をまんがに変換したもの」であるということだと思われる。
この発言が前提としているのは、映画版で描かれたものがまず存在しているはずだという仮定である。彼は自身で「原作である映画版」と書いている。だがしかし、映画版は本当に原作なのだろうか。
そもそも「原作である映画版」と彼が書くとき、彼は何をもって映画版と言うのだろうか。映画版の元になったシナリオだろうか。シナリオから切られたコンテだろうか。コンテから起こされた原画だろうか。原画から書き連ねられた動画だろうか。動画から声を当てられたフィルムだろうか。フィルムから編集を経て上げられた決定フィルムだろうか。
私は寡聞にして良く知らないのだが、アニメ製作において脚本が果たす役割はいわば原作のようなものだと聞く。コンテを切ったり原画を描いたりする中で、往々にして描かれるものは変化してゆく。それはプリキュアTV版の演出を担当している大塚隆史氏の政策秘話!の記述を読めばわかる。

「西尾さんが結局再構築する事になり、全編西尾コンテになった。シナリオの構成も大幅に変更された」
「僕は高橋さんに1つだけお願いをした。節々に見せるキャラクターの感情、表情をよろしくお願いします、と。その結果、奈緒も美羽も可愛いいいキャラになったし、憧れの先輩に対する満面満足の笑み、奈緒・美羽、ひかりの笑みは最上のものとなったと思う。特にびびるルミナス、叫ぶルミナス、そして最後に元気よく「はい!」と返事するひかり、ラストカットのひかりは僕もあれこれとこだわったし、高橋さんにも悩み抜いてもらったので、この第15話を象徴する、素晴らしい笑顔になったのではないか、と僕は思っている。(演出がついてこれてなく、笑顔が浮いてたらゴメンなさい。僕の役不足です・・・)」
ふたりはプリキュアMaxHeart#15 「あこがれの先輩は大親友!?」の記述より抜粋)

これはアニメ製作の一般論としても取ることができる。しかしプリキュアTV版の様子であり、これと同じ手法で映画版が作られていると考えて間違いないだろう。シナリオは演出さんの手が入り、作画監督さんの手が入る。大塚氏が語るように、シナリオが大幅に変更されることもあり、さらに作画監督さんが悩みぬく。すなわち映画版もこれと同じ事があったかも知れず、すると「原作である映画版」と言おうとしても映画版の製作現場について情報が無い限り、どの段階での「映画版」を持って「原作」とするかを指定しなければならないということになる。
また、シナリオから映画版に至る過程での変更については、まんが版あとがきから推測することができる。

ひかりもボロボロになりながらも、ひなたを体をはって守ります。(中略)たくましく成長したひなたとほおずりするシーンがホントにかわいくて、シナリオを読みながら思わずジ〜ンとなりました。
(上北氏によるまんが版あとがきより抜粋)

私は映画版を三回見た。ひかり(ルミナス)がボロボロになったシーンは無かった。鳳凰となったひなたと九条ひかりがほおずりするシーンも無かった。上北氏が読み、まんが版の下敷きとしたシナリオには、そのシーンがあった。しかし決定フィルムには無い。
すると改稿中のシナリオを上北氏に渡したのだろうか。私はそれは無いと思う。プリキュアプロデューサーの鷲尾天氏、東映アニメーションプロデューサーの浅間陽介氏、映画版監督の志水淳児氏がまんが版のチェックを通しているとのあとがき記述がある。この面々が揃っていて、中途半端なシナリオを渡すということは考えられない。
ということで私は、映画版とまんが版は同じ決定稿シナリオを元にどちらも作られていると考える。どちらが「原作」なのかということについて言えば、どちらも原作であり、どちらも原作ではないと言うしかないと考えている。

まんが版と映画版の違い

しかし我々が見ることのできる完成作品としては、まんが版と映画版とでは明らかに異なっている。ではその違いは何故であろう。私は出張所にて「(本物のともだちとは何かという)メッセージをより深く描いている映画版のほうが、より脚本として練られているのではないかと感じる」と書いた。
出張所の該当文章では、映画版に寄っている私の意識がかなり出ている。今考えればこれは間違いとして修正したい。申し訳ない。ただし「本物のともだちとは何か」というメッセージに限定すれば、私はなお映画版のほうが「より脚本として練られている」と考えている。
これはおそらく、まんが版と映画版両方の元となった決定稿シナリオに対して、両方が完成するまでに関わった人数の差なのではないかと考えている。まんが版は上北氏の個人的力量に負う所が多いと思う。よって雑誌なかよしにてずっとプリキュアの日常場面を描きつづけてきた上北氏の作品であるまんが版には、上北氏が描こうとする友情がかなりダイレクトに描かれていると考えている。
まんが製作に比べ、映画製作では物語に影響を与えることのできる人数が多いだろう。そこでそれぞれの人たちが思い描く物語像は多様である。なんらかの合意がなされなければ作品を作ることはできない。必然的に「本物のともだち」とは何かについて、それぞれの人たちの間で議論百出だっただろう。
ただし関係者の間で合意をするということは、必ずしも個人的力量で作品を作り上げる場合に比べ有利なわけではない。そこには必ず、合意のために切り捨てられなければならなかった思いがあるはずなのだ。

映画版における?(ネタバレ)

映画版にも?と思えるシーンはある。例えば映画版のフリフロ対決一度目だ。ブラックが腕をつかまれ、腕からだんだんと凍りついてゆくシーンで、ホワイトはキックで凍らされつつあるブラックをフリフロ(のどっちか)から引き離す。その後ホワイトは凍っているブラックの腕を掴もうとするが、ブラックはホワイトの腕を振りはらう。その後ホワイトがうなずいて、ふたりはスパークルブレスを装着する。
この場面が私にはどうしても解釈できない。ブラックに拒否されたホワイトは、なぜかブラックを見つめながらうなずく。これに対するブラックの反応を描かないまま、突然ふたりは次の瞬間スパークルブレスを装着しているのだ。
少なくともまんが版には、このレベルの不整合は見当たらない。よってこの場面だけを取り上げて映画版とまんが版をを評価するならば、まんが版のほうがよくできていると言える。

まんがが説明的であるということとは(結構ネタバレ)

次に彼は「僕も2回目の映画鑑賞後にコミカライズ版を購読しましたが…やたらセリフが多く説明的で…」と書いている。彼のほかに誰が2回目の映画鑑賞後にコミカライズ版(映画を原作と見なしている彼にとっては)を購入したのかは私にわからないが、それはそれとして彼もまんが版を読んだのだということはわかる。
さて「やたらセリフが多く説明的で」である。彼がどの場面を指してそう感じているかを書いていないので、私は推測するしかない。映画版を3回観た上で私が推測するに、映画版と比較してまんが版にて「やたらセリフが多く説明的で」ある場面はたった一箇所、黒白対決のシーンだけである。それを確認するためにまたまんが版を通して読んだのだが、これ以外はあらためて驚くほど映画版とかなり近い。物語のレベルにおいては、まんが版と映画版の違いがほとんど黒白対決しか無いと言ってもいいほどである(もちろんルミナスとひなたの物語がまんが版では選択的に描かれていないという点がある)。
まんが版での黒白対決は、なぎさとほのかがもう一度(そして本当に)出会うまでの過程を描くことが目的とされている。だから最後の出会いを明確にするため、戦闘直前にふたりのすれ違いを描写しておくことは無駄じゃない。それどころか、直前にダメ押し的にすれ違うことで、出会いの場面が出会いとして強烈になるわけだ。
映画版は出会いを描くことが目的ではない。私がこれまで書いてきたように、映画で描写されているのは死を超えるほどひたむきな、一方向の絶対的な信頼である。ホワイトがブラックを壁に叩きつけるまで、ホワイトにほのかの心が戻っているかどうか、画面からはわからない。ブラックがホワイトを殴り飛ばすまでも同じだ。三度目はここに意識を集中して観た。
ブラックがホワイトに飛び掛り、いざ拳に力をこめた瞬間、ブラックの目には光が戻っている。しかしブラックの表情は冷たいままだ。これは意図的にやっている。ブラックがホワイトを殴り飛ばす瞬間、なぎさの心が凍りついたままなのかそれとも解けているのかは、どちらにも取ることができるように仕組まれている。ホワイトはこの瞬間、ブラックの心が凍っているならまだしも、なぎさとしてのブラックが自分を殺してもいいとさえ覚悟していると解釈することもできる。こうなるとなぎさとしてほのかを殺すということであり、この解釈を許す演出にまで至っているというのは凄惨というべきだろう。
論点がずれたので元に戻す。まず闘技場に至る階段でのすれ違い描写は、上北氏が描こうとする出会いを強調するためには有効に働いていると考える。あそこでスッと闘技場に至ってしまえば、そこに至るまでずっとふたりがすれ違っていたことを忘れている読者がいるはずで、彼らには後のシーンの意味がつかめなくなるからだ。
また戦闘中の描写についても、上北氏は「凍った心がだんだんと解けてゆく」過程を徐々に描こうとしている。これに比べると映画版ではふたりの凍った心がいつ解けているのか、ほとんど描写していない。小さいお友だちにとっては不親切と言えるレベルである。しかもこのシーンは、大人にも分かりにくいものだった。
引き合いに出して申し訳ないが、一緒に映画を見たオフ常連メンバーでまんが版を先に読んでいた方々と感想を話し合っていた時点で、あのシーンを映画一度目では完全に理解できていなかったように思う。まあそれは私も似たようなもので、論考をざっと仕上げる過程においてようやくだんだんと見えてきた。というのも二度目、三度目と回数を重ねるほど、相手にすべてを預けて両手を広げるブラックとホワイトが胸をより激しく打つようになっているからだ。
また論点がずれたので元に戻す。物語の演出論から見れば、私には明らかにまんが版のような徐々に心が解けていく描写を丹念に描いて見せるほうが正統的な演出であるように思える。少しずつ解けていくふたりの心。そして凍っているはずのふたりからあふれ出る涙。重なるふたりの手と手。つないだ手と手からあふれ出るふたりの思い出。
戦闘中に描かれているこれら描写があるからこそ、おたがいの手のぬくもりが最後の、そして最大の力となっておたがいをなぎさとほのかに戻す場面を、我々はすんなりと一連のつながりとして理解できるのだと私は思う。「ふたりはプリキュア」が描いてきたこの二年間をより思い出させるのは、私にはまんが版のように思える。これに比べ映画版で描かれている一方向の絶対的信頼は、これまでのTV版では描かれていないものである。いままで描いていないものを、ろくに説明なしで見せてしまうのだから、演出的にはやはり不親切と言うしかない。ただしこの不親切さが、映画版で描かれたものそれ自体の価値を損なうものではないのは言うまでも無い。

これを一つの作品として採り上げる価値があるのか

最後に彼はこう書いている。
「これを一つの作品として採り上げる価値があるのか甚だ疑問だったりします」
彼はもちろん、上北氏に面と向かってこの言葉を言うことができるのだろう。言い方はあるかもしれないが。それができなければウソである。もしこれを上北氏に言えば、当然上北氏はなぜと彼に問うであろう。そこで彼は持論を展開するはずである。このシーンのここがどうだ、全体の印象がどうだ……
上北氏はそれについてさらに問うだろう(彼の持論が説得的であり、なおかつ上北氏がものすごく親切であれば)。それは上北氏にとって有益だからだ。上北氏に足りぬところがあり、それを彼の言により知らされるのであれば、上北氏は今後よりすばらしい作家になることができるであろうからだ。
更に彼は、まんが版のチェックをしたプリキュアプロデューサーの鷲尾天氏、東映アニメーションプロデューサーの浅間陽介氏、映画版監督の志水淳児氏に対しても、もちろん持論を展開することができるはずである。映画版を作った彼らに対して。
彼の論によれば、あのテンションで映画を作ってしまったこれら三氏は、こともあろうにあんな映画を作ってしまったにもかかわらず、まんが版を彼の言う「これを一つの作品として採り上げる価値があるのか」レベルに貶めてしまったのだから。宣伝だからどうでもいいやと、プリキュアを辱めたのはこれら三氏なのだから。

評論するということ

以上、非常に駆け足で彼のコメントに対して記述した。誰が言ったかは調べていただければすぐわかるが「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか! 」と、その人は言った。我々は皆、他人を批評することで我々そのものを表現してしまうのだ。作品を粗雑に批評することは、批評する人自身が粗雑であるということだ。誰かにとって素晴らしいと思えるモノに己が素晴らしいと思えないということは、誰かに見えているそのモノの素晴らしさを己には見えていないということだ。さらにそのモノをすばらしいという人が多ければ、もしかしたら己の感覚が鈍いのかもしれないということだ。
他者を批判するという行為は、そのまま自身を批判するという行為であるかもしれない。そういう懐疑を自身の中で懐疑し、そこに少しでも疑うことのできない何かが残った時、我々はようやくその何かを誰かにむけて語るだけの確信を手に入れたということができる。その何かは非常に硬い、誰にも傷つけられぬ何かであるだろうからだ。
まるっささん。もしあなたがそのような疑い得ぬ硬い何かを持っているのならば、この文章に対しても容易に回答することができるはずである。私はあなたからの回答を待っている。もしあなたが持つ何かが私が持つ何かよりも硬いのであれば、私の何かには傷がつく。私の何かはさらにそこから無駄なものを削がれ、より硬く小さい何かになるかもしれない。
私にとって、その体験は痛くてたまらないかもしれない。しかし私にとって、その痛みは体験しなければならない痛みなのだと思う。でも回答はあなたのサイトに書いてください。お知らせいただければ、私はあなたの回答を読んで考えます。