4 母としての美墨なぎさ

なぎさはショートカットで運動ができてさっぱりしていておっちょこちょいで(藤Pを除いて)物怖じしない。ほのかやひかりに比べると造形は男の子である。しかし周囲の他者との関係を見ると、なぎさが果たしているのは母としての役割である。これは生物学的な母(もしくは現実的な存在としての母)という意味ではなく、神話的な意味での母ということだ。
母親にとって子供はいつまでも子供であり、子供でしかない。子供がどのように育ってどのような社会的地位になろうとも、母にとって子供は子供である。自身が年を重ね病弱になっても子供(と言っても大人だ)の体を心配したりするのが母である。
なぎさの母親的な素質をもっとも敏感に感じ取ったのが小田島である。これは小田島友華にとって最も必要とするものだった。お金持ちで成績優秀スポーツ万能である「学園のマドンナ」としてではなく、小田島友華として小田島友華を受け入れる誰かが。小田島には神話的意味における母親が必要だったのだ。
なぎさのいろいろな態度は、「ふたりはプリキュア」において彼女が神話的意味における母親であると仮定すると、実に一貫している。子供にとって母とは愛だの恋だのとは無関係であらねばならない存在であるとすれば、なぎさが藤Pと最後まですれ違っていたのはそのせいであるし、ほのかとキリヤとの交流を後押ししつづけたのもそのせいであるし、志穂莉奈やほのかやユリコや千秋や京子夏子や奈緒美羽を仲良しグループの違いを超えて同等に扱うのもそのせいであるし、敵の魔人たちにさえタメ口をきくのもそうだ(今回MH第24話で言えばポルンがなぎさにくっついているのもそうだし、バスがザケンナー化して「帰りはどうするのよ」とウラガノスに食ってかかる)。
なぎさはキュアブラックすなわち黒であり、造形としては男の子なのだ。しかし内面的には母である。そして母のイメージとは人の心をありのままに包み込む光であり、色で言えば白である。外面的には黒であるが、内面的には白である。この重層性があるからこそなぎさは作られたキャラクタとしての平板さを逃れている。とは言えなぎさは男の子としてかなり典型的な造形を与えられているし、自分の存在に確信をもっているから、基本的にはくよくよと悩んだりしない。
そのようなステロタイプさを基本にしている。だがたまに悩んだり核心を突いたりするわけだが、それはとってつけた設定ではなく、母としての一貫性を持った必然的なものに見える。ぶっちゃけそのあたりが僕にとって「ふたりはプリキュア」の面白さなのだろう。なぎさが物語をつむぐ原動力となっている。