1 無印前半

第1期 なぎさとほのかが認め合う

もちろんこれは第1話から第8話までの主題だ。少なくともこのあたりまでは、製作決定時に考えられていたものと思われる。その意味ではふたりはプリキュアの基本骨格といえるだろう。
美墨なぎさ雪城ほのかという、あれだけ性格付けの異なるふたりを無理やりくっつけるのだ。主人公を二人にして、お互いキャラクタがかぶらないように性格を割り振れば、どうしても「なぜお互いが仲良く戦うのか」という必然を説明する必要に迫られる。まあそれはお約束として片付けてしまうこともできるのだが、「ふたりはプリキュア」ではそうしなかった。
まあふたりの「雨降って地固まる」ドラマを描くというのは物語の定番だ。そういう観点で簡単に済ませても良いかもしれないし、じつはそういうことなのかもしれない。でも僕にとってこの第1期の主題は、現在の子供たちが特定の少人数で固まって行動することに対して「いろいろあるかもしれないけれど、いまの自分には関係ないと思っている人たちと分かり合うというのはなかなかいいものだよ」というメッセージを送っているのだと思う。
養老孟司バカの壁という造語で言い当てようとしていることなのだが、中学生の塾生たちは何かにつけ「ありえない」「無理」「ヤバイ」「キモイ」と言う。これらの言葉は結局のところ、全て現在の自分の世界とは違う何かを、自分中心の視点から拒否するということだ。まあ僕の世代では「うっそー、ほんとー、やだー」とかあったんだけどね。ただし大人の威圧感とか権威性がもっと落ちているから、その分彼/彼女たち現在の中学生は僕のころよりもっと自身の絶対性が増えているような気はする。
まあそういうわけで、第1期の主題は異なる世界に住んでいたクラスメイトがお互いを認め合うということだった。

第2期 キリヤを救おうとする

第11話で第1期の後始末をして(ゲキドラーゴにはかわいそうだがそういうことだ)、無印前半は第2期に突入する。第12話から第21話までが第2期だ。キリヤと彼の宿命を巡る物語だ。
キリヤは最初、鼻持ちならないこましゃくれたガキとして登場した。ピーサードやゲキドラーゴをあざ笑い、サッカー部に自身満々で単身乗り込み、なぎさを見下した。彼はドツクゾーンを生き延びてきたエリートとしての自負を持っていた。ドツクゾーンは他者を出し抜き生き延びることが価値であり、そこで勝ち抜いてきたキリヤは当然自分以外の誰も信じない傲慢な人格を形成したのだった。だがそんなキリヤがなぜか心動かされたのが雪城ほのかだった。ということで今まで結構書いてきたので詳細を省く。
この第2期は、キリヤ側から見た場合とプリキュアたちから見た場合との二つの意味がある。まずキリヤの結末までをキリヤ側から見た場合は、「自分ひとりの世界を絶対視するということは、他人を傷つけるだけではなく自分自身をも傷つけることなんだよ」というメッセージが出ていると思う。
そしてもっと重要だと僕が思うのは第2期をプリキュア側から見た場合、「正義のヒーローでさえ、願いがいつも叶うとは限らない」もしくは「いくら力を持っていても、願いはいつも思い通りに叶うとは限らない」ということなんだと思う。これはかなり冒険だと思う。現在のマンガは特に、ずっと勝ちつづけるものがほとんどだ。さらにプリキュアはほとんどの場合一話ごとに戦闘があり、しかも全てに勝利するわけだ。無敵のヒーローである。それは結局、プリキュアたちにとって世界(光と闇との戦い)が全部思い通りになるということだ。
唯一、最後に「負けて」終った(もしくはすっきりとした「勝ち」とはいえなかった)のはキリヤの結末だけだった。キリヤを救わないという物語上の決定は、常に勝ちつづけるしかないプリキュアたちが万能ではないという事実を視聴者に突きつけるため、必然的に選択されたものだろうと思う。
敵同士が分かり合った瞬間に永遠の別れ… 状況としては矢吹丈力石徹のようなものか。「あしたのジョー」は主人公がとことん負ける物語だった。そこまでではないにせよ最近にはめずらしく、最後に勝てないという要素を入れてきたのはやっぱり製作者たちには明確に伝えたいテーマがあるのだなと思う。

第3期 孤独と連帯との戦い

キリヤが消えてからは、光と闇との戦いを終らせることになる。ここに来てようやく光と闇との戦いが主題になったのだった。ここでも詳述はしない。ジャアクキング様は、生き残った最後の部下であるイルクーボを自らの手で葬り去った。彼は孤独な生き方を象徴していたわけだ。対してプリキュアたちは、なぎさほのか、メポミポだけではなく、光の園虹の園に生きる全ての生命を背後に持っていることを自覚しており、なおかつ光のクイーンがふたりを後押しして戦った。ということは、彼女たちは連帯を象徴していたのだ。
ということで、連帯することが大切なんだよというのが第3期の結論だ。