バカみたいに

「もしもし。Nowhere学習塾のdokoikoです」
「このたびは、みかがずいぶんお世話になりました」みかポンの母親が電話に出た。僕は何をいえばいいのか分からない。
「こちらこそなかなかお役に立つことができなくてすみません」だからといって電話をかけておいて無言になるわけにもいかない。こういう展開になるプレッシャーを引き受ける覚悟で僕はみかポンの自宅に電話をかけたのだ。
「いえいえ。何度もそちらにうかがわせていただいてありがとうございます」お母さんは丁寧に電話の向こうで言う。みかポンはねねポンとゆかポンの友達だ。Nowhere学習塾には夏期講習だけを受講し、その後は外部模試だけを受けにきた。みかポンは常に外部模試で420点アップの成績をとった。400点をとる塾生はひとりもいないので、僕が面倒を見た三年生の中で彼女はダントツに成績がよいということにある。彼女は夏期講習に来るまで一度も塾に通ったことが無く、夏期講習以後も基本的には塾に通わず勉強した。
僕は教室長の権限で彼女を特別塾生として認定した。というのも、Nowhere学習塾では、定期テスト前を特別学習期間として塾生はオールタイム通塾放題としていて、土日も開けていた。彼女の塾生認定は、特別学習期間に彼女を迎えるためだ。
でもそれは彼女だけではなく、いろいろな状況で塾を去っていった全ての元塾生たちを僕は特別塾生として認定した。そして彼/彼女たちすべてに対して、定期テスト前には塾にきても良いと連絡した。
『でも先生、お金も払ってないのに来てもいいのかな』
『来てもいいよ。まず第一に、教室長の僕が来てもいいと言うのだから。そして第二に、現塾生たちは特別学習期間だからといって余分に塾費を払っているわけじゃない。ということは、特別学習期間は基本的に無料で塾生たちを受け入れている。だったら、僕が君を塾生だと認めているのだから、特別学習期間だけならば君は塾生として誰に引け目を感じることなく堂々と塾に来ればいい』
全ての元塾生たちに僕はそうやって説明した。要するに広告を打つ費用の代わりに口コミに費用を使っているということなのだが、一度かかわりをもった子供たちを手放すことができなくなってしまったバカ教室長のバカこじつけだ。そうして彼女は定期テスト前と外部模試に塾に来ていた。
「みかさんからお昼にメールをもらっていたので」
「ということは、結果はご存知なのですね」
「ええ」
「そういう結果でした」
「ええ。お役に立てなかったのでご連絡するのはどうかと思いました。でもみかさんに直接、今まで良く頑張ったこととこれからも頑張るんだよということを伝えたいと思いました」
「ほんとうにお世話になりました。ではちょっとお待ちください」
「ありがとうございます」受話器からは電子音のエリーゼのためにが流れ始めた。むやみに大きな電子音に受話器を少し離したところで、僕はいまさら彼女に何を言うことも無いということを知った。
「こんばんわ」お昼のメールに書いてあったとおり、彼女の声はあまり落ち込んでいないようだった。
「こんばんわ」僕は注意深く声のトーンを彼女のトーンに合わせて言った。でも次の言葉が出なかった。正しく言えば、次の言葉は無かった。
「せんせい?」
「はい」
「こんばんわ」
「こんばんわ。受験勉強お疲れさま」
「はい」
「なんというか…」自分から電話をかけておいて、なんというか… は無いだろうと思う。でもなんというか…「残念だったね」結局このひとことになるのだ。このひとことをちゃんと伝えておかなければ、はじまらない。そう思う。
「うん」彼女はややため息を含んで言った。そういうしかない。そう思う。
「お昼のメールでは、不思議に気落ちしていないということだったけれど」
「うん」
「いまはどう? 落ち込んでない?」
「どうかな。あまり落ち込んでいないと思う」
「そうか」そうか。落ち込んでいると思ったときは落ち込んでもいいんだよ。そう言おうかと思ったのだけれど、結局のところ彼女をやせ我慢させることにしかならないので言わずにおいた。Some things are better left unsaid.
「ところで、大学には行こうと考えている?」
「あ、はい」
「ずいぶんと先の話になってしまうけれど、次は大学受験だ。がんばれ」
「うん」
「みかさんはこれまでこつこつ頑張る習慣を身に付けているから、これからもそれを続けてください」それを続ければ大丈夫だよ。そう言おうかと思ったのだけれど、今僕がそれを言ってそれでどうなる? たとえそれが真実だとしても、この状況では気休めの場つなぎにしか聞こえないだろう。「がんばれ」
「うん。がんばる」彼女はやや間を置いてそう言った。
「がんばれ」僕は何度かいろんなことを言いかけてはくちごもり、ようやくもう一度そう言った。バカみたいだ。バカかもしれない。きっとバカだ。こんなことを言うのはバカしかいない。がんばれという言葉をずっとウソくさいと感じていたのは、この僕なのだ。
「明日の手続きを間違えないようにね」
「わかった」
「それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい」彼女は電話を置いた。受話器からは通話終了後の電子音が聞こえていた。僕は受話器を耳に当てたまま息を止めて苦しくなっているのに気が付き、受話器を電話機に戻して深呼吸をした。そして彼女にメールを書いて送った。

X-Status: SENT
X-My-Real-Login-Name: dokoiko; mail.nowhere.net
MIME-Version: 1.0
X-Mailer: Denshin 8 Go V32.1.3.1
Date: Wed, 23 Mar 2005 21:11:46 +0900
From: どこいこ
To: みかポン
Subject: どこいこです。
Message-Id: <20050323211146%dokoiko@mail.nowhere.net>
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp

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みかさん。長い受験勉強お疲れさま。何かを言おうと思うと、がんばれとか次があるとか、間が抜けたことしかいえない。僕が大げさに残念がっても、高笑いして明るく元気づけてもしかたがない。けっきょくのところ、これはみかさんの人生なのだからみかさんが自分の足で歩かなければいけないことだ。いま、なにもいわずみかさんの隣にいることができればと思う。
大学に進めば、元浪人生がたくさんいるはず。僕もそのひとりだった。大学以降では、あるときには失敗してもまた明日頑張ればいいということが普通のことになる。
だから、がんばれ。明日へ向かって。

X-Status: SENT
X-My-Real-Login-Name: dokoiko; mail.nowhere.net
MIME-Version: 1.0
X-Mailer: Denshin 8 Go V32.1.3.1
Date: Wed, 23 Mar 2005 21:17:04 +0900
From: どこいこ
To: みかポン
Subject: 追伸です。
Message-Id: <20050323211704%dokoiko; mail.nowhere.net>
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp

              • -

でもまあ、みかさんが大丈夫なら僕だけが深刻になるのも変な話だな。次会うことがあれば、笑顔で会おう。そのときは、明日の話をしよう。

今年僕がかかわりを持った三年生は全部で八人だった。あとの7人は第一志望に合格することができた。美術科のゆかポンは推薦で一足先に合格していた。音楽科のねねポンは「あった! 名前あった! あった! あった!」とメールがきた。喫茶店説教の彼はなんと顔文字で「合格しました〜(^O^)/」とメールしてきた。小さいころ病気がちだった彼は電話に出た瞬間安心した声で合格したことがわかった。私立公立のおなチュー三人組もそれぞれの性格にふさわしい合格の知らせをくれた。
一敗、七勝。簡潔に結果を表現するとそういうことになる。でも、みかポンだけが「負けた」わけじゃない。七人のうち、志望校を決めるときに目標を下げざるを得なかった塾生が何人かいることを、僕は知っている。みかポンはあくまでも自分が入りたい学校に向けてこつこつと努力し、合格するに足りるところまで頑張って勝負したことを、僕は知っている。
ではみかポンが負けていなくて、目標を下げた塾生たちが負けたのか? そういうものでもないだろう。彼らはみな、ある面において負けたのかもしれず、またある面において勝ったのかもしれない。あるいはこの場合の負けたとか勝ったというのは比喩に過ぎず、人生における勝ちとか負けという言葉にはそもそも意味が無いということなのかもしれない。あるいは人生にはある面における負けと、ある面における勝ちというものが実質として存在しているのかもしれない。
だが結局のところ、今日の勝ち負けがどうあろうとも(もしくは今日の勝ち負けを認めた上で)僕たちは明日へ向かって進むしかない。明日の話をしながら今日を終え、明日になれば明日を生きるしかない。いや、僕たちは昨日の話をしながら今日を終えることもできる。でも僕たちはいつまでも昨日の話をして今日を生きることはできない。いつかは明日の話をしはじめなきゃいけない。
やっぱりバカでもいい。僕は君にあらためて言う。
がんばれ。