分かれ道

ふたりはプリキュアマックスハート」第7話は面白かった。いろいろネタを暖めていたら仕事先から電話がかかってきた。
「パッチが当たりません。スクリプトは走るのですが、abortしているようです」連休ということもありWindows系サーバを全部落としてセキュリティパッチを当てまくる作業を進めている担当者が電話の向こうでしゃべっている。というのもセキュリティパッチのexeを集めておいて、Windowsのバージョン情報などを編集してあるxmlを読み込みつつパッチを選別して連続適用するvbeを用意してあって、作業員の人たちにはそれをたたいてもらうのだった。通常ならばパッチの連続適用でそれなりの時間が経過するのだが、特定のサーバいくつかでは一瞬で終了するらしい。
しょーがねーなと目の前のPCでVPNセッションを張り、リモートで該当のWindowsにログオンする。確かにどこかでabortしているようだ。regeditを立ち上げ、どのパッチが問題なのかを探してみる。どうやらIEの累積パッチらしい。累積パッチを単独でたたいてみると、すんなり当たった。ただしその後にも10個ぐらいパッチを当てなければならない。全部手動でたたくのは面倒だ。テキストエディタで残りを連続適用するバッチを組み、最後にqchain.exeを加える。
すると社内のExchangeサーバが飛んだとの連絡が入る。再起動でHWが昇天したらしい。古いサーバにはままあることだ。故障ぎりぎりで稼動していたHWは、再起動すると壊れる。特に何年も動かしっぱなしが普通のルータなんかはよくこうして壊れる。しかもこのExchangeサーバはご隠居間近だったのだが、実はまだ1000人以上のユーザに影響がある事が発覚してしまう。そんなこんなで連休が全部つぶれてしまうわけだ。ほぼプリのMH第7話感想はそうして遅れてゆく。そして今日になる。まったく。
(暗転)
「もしもし。いよいよ明日だね」今日僕は電話をかけて回る。
「うん」
「どうかな」
「実は私、すごく緊張してる」
「そうか。緊張してるのか」
「うん」
「もうできることがなにもないものね。待つしかない」
「うん」
「待つしかないのが一番つらいかもしれない」
「私の場合、テストができれば合格するわけじゃないから」
「そうだね。何か言ってあげたいけれど、僕にはわからない」ねねポンは音楽科を受験した。音楽科の受験について僕はほとんどわからない。
「何はともあれ、明日は来る」やや間が空いた。僕にはそれ以上言うことが無かった。
「来ちゃうんだね」やや間が空いた。彼女にはもっと言うことがあるかもしれない。
「あと、何かありますか」
「せんせいありがとう」
「こちらこそ。明日は手続きがいろいろあるから、早く寝な」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」彼女は電話を置いた。僕は電話を切った。
(暗転)
「もしもし。いよいよ明日だね」今日僕は電話をかけて回る。
「なにが?」
「なにが?」
「ああ、あれか」
「そう、あれです」
「まあ、大丈夫なんじゃない」
「そうか。大丈夫なんだ」
「わからんけど」字面はぶっきらぼうなのだが、しゃべり方はずいぶんリラックスしている。一年前、授業を中断して喫茶店に連れ出し、いくつか約束をしたのが彼だった。遅刻するときには前もって電話する、授業中に言いたいことがあっても終了までは授業を受ける、塾では僕がルールブックであり、僕が彼を退塾としない限り力ずくでも勉強を教える… 当時は大人を大人だからと斜に構えて悪ぶっていた。月日は流れる。そして明日は来る。
「そりゃ、わからんわな」そりゃ、わからんわな。「で、今日はクラスでお別れ会だったんじゃないの?」
「昨日」
「そうか。最近の中学生は何するの?」
「食べ放題の店に行った」
「ふむ」
「…」
「それだけ?」
「そんで… あと遊んだ」
「遊んだって、何」
「ええっと… いろいろ」
「何だよそれ」
「…いろいろ」
「お家の人に聞こえるところでは言えないことだ」
「まあ、そう」
「まあいいや。明日は手続きがいろいろあるから、早く寝な」
「うん」
「おやすみ」
「…おやすみ」彼は電話を置いた。僕は電話を切った。
(暗転)
「夜分遅くすみません」
「申し訳ありません。うちの子は今日、学校のみんなとお別れ会で」
「まだ帰っていませんか」
「ええ、まだ帰っていないんです」
「そうですか。特に用件があるというわけではないのですが、彼が緊張していないかと思いまして」
「そうですか。私は緊張しているのですが、本人はもう合格したものだと思っているようで」
「そうですね。塾で自己採点した結果はそれなりにできていたので」
「もうちょっと学校でまじめにやっていれば、内申で上の学校に入ることができたのにと言ったりしています」
「なるほど。確かにテストはずいぶんできるようになりましたから、結果的にはそういうことになりますね」
「ええ」
「とはいえもう受験は終ってしまいましたから、もうどうあれ入学する高校で三年間がんばることでしょう」
「そうですね。あの子は小さいころ体力がなくて毎月体調を崩していました」
「そうですか」
「小学校の先生も、中学校にあがって三年間ちゃんと通えるかどうか心配していたんです」
「確かに塾にきたころはとても小さかったですね。でも今ではずいぶん体も大きくなりましたから、徐々に体力もついていくでしょうね」
「そうですね。この一年で大きくなりましたからね。でも最近はずっと反抗期で、私の言うことに何でも食って掛かってきて大変です。男の子が何を考えているのかというのは、想像するしかありませんから良く分からなくて」
「私も彼ぐらいのときはそうでした」僕は自分が中学生だったころを思い出した。
「今考えると、私の親にはずいぶんと辛い思いをさせたんだなあと思います」そんなこんなで20分ぐらい聞き役にまわる。
「それでは明日の昼間はご家族ともどもお忙しいでしょうから、このぐらいの時間にこちらからお電話差し上げます」
「よろしくお願いします。もしよろしければ、これからもうちの子の相談にのってあげてください」
「できることは限られるでしょうけれど、よろこんで」
「それでは失礼します」
「失礼します。長々と申し訳ありませんでした」
(暗転)
そのような感じで全ての発表予定者に電話をかけた。明日、彼/彼女らは彼/彼女らの人生で最初の大きな分かれ道を進む。ずっと昔にその分かれ道を進んだ僕たちが振り返れば、実はその分かれ道はたいしたことが無いのかもしれない。この分かれ道がその後の全てを二分割するわけでもない。結局のところ、分かれ道をどう進もうともその先に待っているのはまた別の分かれ道であり、僕たちは泣いたり笑ったり黙ったりしながら日々新たな分かれ道を進んでいくのだ。
でもいままでテストの点が下がったと泣いたり、私立の合格発表前日に何もできず混乱したりした彼/彼女たちのことを考えると、僕は自分が分かれ道を進むときよりも緊張する。待つしかないのが一番つらいかもしれない。できることならば代わりになりたい。でもそれは僕の不安を落ち着かせるだけで、彼/彼女たちには何の役にも立たない。これからずっと彼/彼女たちは自分の足で分かれ道を選びつづけなければならないのだから。
(暗転)
時計の針は音を立てず12時に向かいぐるぐると回りつづけている。窓の外では春の雨が静かにアスファルトを打ちつづけている。僕と彼/彼女たちとの分かれ道には、静かな雨が降っている。
何はともあれ、明日は来る。