7 等身大でありつづけること

昨日のほぼプリid:dokoiko:20051028では、現在のアニメ的ヒロイン/ヒーロー物語を解体しようとしたルネサンス的「原点回帰」の方法が自己運動をはじめ、その遠心力がアニメヒロイン/アニメヒーロー的物語要素を振り切ってしまったのではないかと妄想した。その自己運動の結果、なぎさとほのかは戦士として成長しなかったり、戦闘方法がワンパターンだったり、日常と非日常が交差しかかるドキドキがなかったり、藤Pとの関係が具体的にならず抽象的なあこがれそのもののようになってしまったり、光と闇をめぐる大きな物語にいつまでも入りきれなかったりすることになったのではないかと妄想を続けた。
まあもしそのようなことが実際に起きていたとしても、それは副次的な作用というべきものだろう。製作者たちの主体的な目論見としては、やはり新たなヒーロー/ヒロインの描き方を作り上げようとしていたのかもしれない。
とにかくなぎさとほのかを成長させない。絆は強くなるのだが、人間的に成長しているかというとそうでもない。特に非日常の戦いにおいて、大きな物語を最終的になぎさは退けてしまった。光の園とか世界の終末とか、それは根本的な問題じゃないってのは、ヒーローとしてありえない姿である。そのような正義を自らの宿命として引き受けてゆく心情変化は、ヒーロー物のフォーマットのひとつである。
というか、戦後にはためらいなく正義を選び悪を許さないヒーローの時代があった。何が悪で何が正義かということに人は迷うことが無かった。つづいて何が悪で何が正義かということについて確信が持てなくなる時代がきた。ヒーローは自らのよりどころに悩むのだが、最終的に彼の中で正義とは何かという問題が解決され、正義と悪の大きな物語の中へ突入してゆく。
その一方で、正義と悪の問題を回避するという解決法もある。正義と悪の物語は単なる舞台装置として存在し、その中でラブコメだとかドタバタだとか別の何かを表現するという物語だ。大きな物語なんてありはしない。あったとしてもオレには関係ない。たとえオレがそれに巻き込まれていたとしても、オレには関係ない。そういう描き方だ。正義と悪の大きな物語はすでにウソくさく、しかし分かりやすい物語の入れ物としてなじみのある大きな物語は使いたい。そうなると、大きな物語の中でそれを無視した「もっとリアルな」何かを描くということになる。大きなお友だちにはウケるだろう。でもそういうことをずっとやっていると、表現として袋小路に入る危険性は大きい。
ふたりはプリキュア」は、単なる物語のための設定として使いまわされている大きな物語をまじめに回復しようとしたのかもしれない。ただしその回復は、昔のままの物語ではいけない。すでに大きな物語は、正面切って描いてみてもウソくさくしか受け取られないのだ。だから、大きな物語を主人公なぎさが引き受けるには、ある種のトリックが必要となった。なぎさには決して大きな物語を能動的に引き受けさせず、ほのかやメポミポとの絆を追求させる。そして最終的には「私がほのかとの絆を大事にしたいのだから、絆を引き裂くあんたたちのことは絶対に許さない」という決意をさせる。
そしてその極限まで個人的な決意は極限性の裏道を回りまわって、ジャアクキング様を倒し世界を闇の支配から守るという極限まで大きな正義へと裏側から接続する。結果を見ればなぎさの行動は、大きな正義を背負ってジャアクキング様と対決するときと変わらないものになる。
ただしここには越えなければならない高い壁がある。なぎさは生の人格として、最終的に大きな正義を背負ってジャアクキング様と生死をかけて対決しなければならない。正義という歴史ある思想による手助けのないまま、自分ひとりのエネルギーだけで大きな正義を背負いきらなければ成らないのだから、なぎさの決意はよほど強力であることを描かなければいけない。ジャアクキング様と闘うということは、死にに行くことと同じようなものだ。それを自分の決意だけで乗り切らねばならないのだから、よほどの決意でなければ逃げるよ。
大きな物語がうそ臭いものとなっている現在、大きな物語へ主人公を接続するためには小さな物語の極限を突き抜け、裏側から大きな物語へとなだれこむという形を取ることがリアルである。なぎさの小さな決意を極限まで描くには「つながる」という一点に描写を絞り、等身大であることにこだわりまくった「ふたりはプリキュア」は、かなりよい線を進んだように思う。
追記:もちろん等身大でありつづけるということは、小さなお友だちを置き去りにしないということもある。それを突き詰めていくとなんだか「昨年の番組は…」という後ろ向きの意味が大きくなってしまうような気もする。そういう論考はプリキュア開始前からすでに語られていることだし、せっかく一年目が終る段階なのだからこの一年で「ふたりはプリキュア」が何を描いてしまったのかということを積極的に考えてみようということでした。以上。