幕間(2):闘う理由

1話ごとの分かり易い起承転結(たまに起転結だったり起承結だったり)を面白がる一方で、なぎさの中の闘う理由に複雑なものを求めていたせいで、大きなお友達である自分が物足りなさを感じてしまっていたのかな。(ニタさん、id:hankotsu:20050123)

複雑なものがなかったというのはそのとおりだと思う。これについてはみちたろさんがプリキュアをひそかに応援したい日記の「1月22日(土) なぎさの戦い」にてしっかりと分析している。ぜひ学徒*1みちたろさんの文章を読んでいただくとして、まとめると
1)第20話まではなぎさは闘う理由をつかんではいなかった
2)第21話以降、なぎさは「早く終らせるために」つまりやるっきゃないからやるという理由を見つけた
3)復活編初期には「虹の園(そのもの、またなぎさの友だちや家族)を守るため」に闘うという言葉を何度か口にした
4)しかしなぎさにとってその理由はよそよそしかったため、第42話でひとりきりにされてしまうと混乱してしまった(そうか、第42話は村上春樹小説に頻出する「井戸の底」だったんだ)
5)井戸の底でなぎさは「自分のため」という真になぎさを動かすことのできる理由を掴み取った。そして井戸から帰還
という変遷がある。というかこんなにブレている。なぎさは理由を探しつづけていたわけで、見つけてさえいないものが複雑になるはずがない。理由探しというのは結局自分探しである。闘う理由とはすなわち生きる理由である。戦わなければ闇にすべてを食い尽くされてしまうのだから。現代日本に生きる人たちの多数は、生きる理由をつかむことが難しい。幕末の攘夷と開国とか、明治期には西郷と大久保とか、清とロシアとか、昭和初期にはアメリカとか、戦後には生きることそのものとか、共産主義と資本主義とか、自民党全共闘とか、敵と味方がいてわかりやすい大文字の正義をかけた争いが目の前にあった。当時の人たちはそのような争いの状況に否応無く投げ出されてしまっていたわけで、闘わないという選択肢は無かった。だからいかに闘うかという地点から生きることになり、闘うこと=生きることそのものを問う地点をスルーすることができた。
1989年。大文字の正義が消滅した年だ。ベルリンの壁が崩壊しホーネッカーが失脚。獅子身中の虫ゴルバチョフが「悪の帝国」ソビエトを本当に片付けてしまった。これを受けてフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を出したのが1992年。自民党が政権を追われ、自民=社会の安定構造が崩壊したのは93年。このあたりで、看板としてすら大文字の正義は終った。
例えば小説家(僕は知らないのだが)葛西伸哉

もうひとつ指摘すると、この頃から主人公たちの掲げる正義が「理念」というよりも「個人的な感情」として描かれる傾向が強まっている。(>葛西伸哉スーパー戦隊を振り返る』●展開期(『科学戦隊ダイナマン』83年〜『地球戦隊ファイブマン』90年)の項より抜粋)

と述べている。葛西が展開期の始まりとしている83年というのは、第40代アメリカ大統領ロナルド・レーガンソビエトを「悪の帝国」と形容し、かの「スター・ウォーズ演説」を行ったちょうどその年だ。絶好調の覇権国家アメリカに対し、ソビエトの計画経済は誰の目から見ても最終的な崩壊を迎えつつあった。そこにソビエトが築きあげてきた長距離核戦力を無効化させるというスターウォーズ計画をぶち上げ、しかも湯水のごとく予算をつぎ込む決意を示したのだった。この計画にソビエトが対抗するのは無理であり、これ以降威厳ある撤退への模索をはじめることになる。
つまり大文字の正義が崩れてゆくのが83年からであり、それはスーパー戦隊のゆくえにも影響を与えたのだった。戦いの理由を正義に求めることがうそ臭くなり、個人的な決意がそれに代わったのだ。そして現在では、個人的な決意ですらうそ臭くなっている。70年代までは正義のために人は生きた。80年代には楽しむために人は生きた。90年代以降、なぜ生きているのかをまず確認しなければいけなくなった。しかし人は生きているわけで、なぜ生きるのかを探すことになった。もちろんなぜ生きるのかというのは人間普遍の問題ではあるのだが、大衆レベルにまで浸透したのが90年代以降の日本社会である。
また元に戻す。なぎさや番人が見せた変身(番人は変身していないが)シーケンスでの自己突っ込みとはそういうことだ。みちたろさんが整理した、なぎさが闘う理由の変遷は、生きる理由がわからないのに生きていかなければならない現代日本社会の大衆心理をまともにそのままトレースしている。視聴者が現在感じている退屈さというか状況からの疎外感や押し付け感をなぎさがそのままトレースしているのだから、見ているほうにとってつまらないのは当然と言えば当然のことだ。
(明日に続く)

*1:情報学環面接受かってれば僕もorz