キリヤが残したもの〜第22話

キリヤがいなくなって、ほのかの心には何かが残った。しかし生来人間関係に鈍感なほのかにはそれが何なのかわからない。キルケゴールが匿名の書物にて語ったように、自分の心を自分で感じるという行動は自分自身に関係する関係である。自己理解とは他者との関係にて形作られる関係様式を自分の心に向けて適用する、ひとつの(だが多少特別な)他者関係だ。人の心の動きに鈍いほのかは、自らの心の動きにも鈍い。
またほのかはそのような生来の特質に加え、自らの感情をできるだけ動かさないようにしてきたことがキリヤに対する自らの感情を感じないようにしていたのだろう。彼女は自らを常に律して生きているはずだ。ほのかは常に身だしなみを整え、感情を自分のために使わないようにしている。それは今までの物語の中で何度も描写されている。
ほのかはキリヤが消えていったという事実が自らにとってどのような意味を持つのかを掴みかねていた。それは掴まなければならないものではない。キリヤが消えていった意味を掴まなければ、それはそのまま彼女の脇をすり抜け、永遠に消えてしまうだけのことだ。運命に導かれ同じ時を過ごし、彼女をすり抜けて闇に消えていったキリヤ本人と同じように。
しかし運命は、その意味をほのかの両手に握らせた。運命が彼女にその意味を握らせるという物語が、今回第22話だった。キリヤが消えていったことが彼女にとってどのような意味を持っていたのかをほのかに知らせたのは、いったい何だったのだろう。もちろんそれは、今回第22話の主題であった迷子の子犬だ。
子犬は飼育者の手を離れ、一匹で橋の下にいた。子犬にとって飼育者の手を離れることは自らの選択ではない。子犬にとっては抗えぬ運命なのだ。運命に流され、子犬はひとりぼっちになった。そのままでは子犬はただ生命の火が消えるのを待つしかない。いや、何をしても生きることはできないだろう。しかし運命は子犬を見捨てなかった。雪城家の番犬である忠太郎が子犬を見つけた。運命は忠太郎を導き、忠太郎は子犬を導いた。忠太郎は子犬を雪城家の縁の下につれて帰り、子犬は運命に翻弄されながらも生き続けることを許された。
そして縁の下の子犬をなぎさとほのかが見つける。なぎさとほのかは運命に抗う力を持たない子犬のために飼育者を探す。やがて引越しをした飼育者の新居を突き止め、子犬を飼育者に戻すことができた。やがて子犬を戻したほのかの心にはキリヤの姿が浮かぶ。彼はあの子犬と同じように運命によって生き続ける選択肢を奪われていた。そしてあの子犬と同じように彼女たちと出合った。しかしあの子犬とは違い、ほのかは彼女と出会ったキリヤを生かすことができなかった。
ある地点までキリヤの運命はあの子犬と同じだった。ほのかと出会うまでは同じだった。ほのかは同じ運命に流されていたキリヤと出会い、子犬と出合った。しかしほのかは子犬を救えたが、キリヤを救うことはできなかった。生き続ける運命へと子犬が導かれるために何がしかの手を差し伸べることができた幸福感という視点を手に入れたことで、ほのかには分かってしまった。生き続ける運命へとキリヤが導かれるために、何も手を差し伸べることができなかったという事実を。
彼女は泣いた。キリヤを奪っていった情況という彼女にとって巨大な運命の前では、泣く以外今この瞬間に一体何ができるだろう。キリヤが自ら闇に帰っていったからこそ、彼女はキリヤを奪われた痛みを感じている。キリヤがもしあの戦闘で最後まで意地を貫き通し、プリキュアたちがマーブルスクリューをキリヤに浴びせていたらどうだろう。それでは結局キリヤはプリキュアたちにとって、ほのかにとってそれまで倒してきた魔人たちと変わりない魔人のひとりとして記憶されることになっただろう。
キリヤはプリズムストーンを自らほのかに手渡して闇に消えた。その行為は今、ほのかの中ではっきりと焦点を結んでいるのだ。子犬のようにほのかへ自らの運命を託して消えていったキリヤ。彼の行動はほのかの心にキリヤという存在と彼が背負った運命の重さを感じさせている。
個人的なことになるのだけれど、キリヤのいない「ふたりはプリキュア」を見るのはちょっと辛い。ということで今日はこれが限界みたいです。しかしキリヤが残したものをほのかが感情の地点まで深く理解した(理解してしまった)ことをフォローしたことはうれしい。なんとか立ち直ることができるかもしれない。ほのかじゃなくて、僕が。