4 すくむ心

昨日の第3章で「生まれたての彼の心は後ろめたさと高揚の岐路に立ち、どちらの道をも自らの意志で選ぶことができない状況だった」と書いた。ちょっと早足で進みすぎた気がするので、僕自身の感情を言葉で確認しておく。まずは後ろめたさについて。
5月30日に書いた第18話感想の第5章「加速〜第18話:5 闇の声」では、ドツクゾーンポイズニーをすべてキリヤという人格の闇の部分として描いてみた。キリヤの心理状態がそれなりによく分かる気がするのだが、ドツクゾーンや魔人たちは「ふたりはプリキュア」の物語に実在する。だからそのまま使うわけにはいかない。しかしキリヤの心を感じようとするとき、キリヤの心に現実がどのように投射されているかを考えることには意味があるだろう。
キリヤは闇の魔人だ。彼はドツクゾーンから生まれた。ドツクゾーンの支配者はジャアクキング様であり、彼のパートナーはポイズニーだった。だからほのかと出会う前まで、彼のアイデンティティは闇を基盤としていた。ドツクゾーンはエネルギーを求めて他の世界を蹂躙してきたものと思われる。蹂躙された世界は、ただ何もない闇にされてしまう。蹂躙した他の世界からエネルギーを食い尽くしてしまえば、ドツクゾーンにはまた新たなエネルギー源が必要になるのだろう。そしてまた別の世界を蹂躙する。
そうして別の世界から常にエネルギーを輸入しつづけなければ、ドツクゾーンは自らを食い尽くしてしまうらしい。ドツクゾーンジャアクキング様)は自らの生存を賭け、他の世界の事情を無視する。他の世界に生きる者たちの尊厳を侵犯する。侵犯することに何の罪悪感もない。彼らには守るべきものは何もない。ただ侵攻し奪い尽くし食い尽くすだけだ。おそらくはそのような歴史を続けるうちに、ドツクゾーンの中に存在したかもしれない他者への気遣いや思いやりや協調性は淘汰されてしまったのだろう。そのような性質を持つ存在は、繰り返される出撃のなかで相手に倒されたり、ジャアクキング様に不要だとして消滅させられたり、同じ闇の存在に裏切られたり利用されたりして徐々にその数を減らしてしまったのだろう。ドツクゾーンという特殊な環境において、ドツクゾーンの精神が最適化していった。
(明日に続く)

さらば青春の光

今日は塾にいると電話がかかってきた。花見娘からだった。「あのさ、ひさしぶり」と彼女は言うので僕も久しぶりだねと答えた。「今日、時間があればお酒でも飲まない?」というので僕は時間があるからお酒でも飲むと答えた。塾を30分延長して10時30分に扉に鍵をかけた。てくてくと歩いてお酒を飲む場所までたどりつくと彼女はもうカウンターで酒を飲んでいた。僕は彼女の左に座りビールを店員さんに頼んだ。あっという間にビールが届き、僕と彼女は乾杯をした。彼女は冬のソナタを語り、僕はもちろんプリキュアの話をした。でも僕は冬のソナタを見ないし、彼女はプリキュアを見ない。彼女は参加しているNPOの話をして、僕は塾生たちの成長を語った。でも僕は彼女のNPOとは関係のない人生を送るだろうし、彼女は塾とは関係のない人生を送るだろう。
10年。僕と彼女がお酒でも飲みながらすれ違いの会話を交わしたはじめての日からそういう年月が経つ。彼女と僕はずっとすれ違いの会話を交わし続けてきた。10年の間に僕は留年して就職して転職して会社を作った。10年の間に彼女は留年して就職して転職して引越しをした。そして彼女と僕は定期的にお酒でも飲みながらすれ違いの会話を交わし続け、今日もまたすれ違いの会話を交わす。すれ違いは永遠に続く我々の儀式のようなものだ。我々はお互いのすれ違いが永遠であることをを確認するためであるかのようにお酒でも飲みに行く。
相変わらず話題は完璧にすれ違う。何のために話をするのかと誰かに尋ねられたとしたら、僕は肩をすくめて首を振るしかない。何のために10年もすれ違う会話をしてきたのかと誰かに尋ねられたとしたら、やっぱり僕は肩をすくめて首を振るしかない。僕には多分、すれ違いにもかかわらず彼女が必要だったのだ。いや、すれ違うからこそ彼女が必要だったのかもしれない。もしかしたら理由など必要もなく彼女が必要だったのだろう。
「あのさ、8月14日はお盆なんだけれど会社はお休み?」彼女はラストオーダーと清算の済んだあとで僕に尋ねた。
「8月14日は土曜日だよね」僕は答えた。8月15日は日曜日だ。
「うん。土曜日はお盆でも塾があるの?」
「ないよ」
「ないんだ」
「お盆はみんなどこかへ行ってしまうからね」
「そうだね」
「だからお盆は土曜日も休みなんだ」
「なんだ」彼女は次の言葉を継がなかった。僕も言葉を継がなかった。午前1時のお酒でも飲むところにはラストオーダーを過ぎてもたくさんのお客さんがいろいろな話をしていた。彼らが話す内容はわからない。世の中にはたくさんの人たちがいて、それぞれにたくさんの人生を抱えている。狭い店内は彼らの言葉で溢れていた。この世界は意味でできている。僕にわかるかどうかとは無関係に、この世界は意味でできている。僕はグラスを持ち上げて言葉をビールに溶かして飲み込んだ。
「あのさ、なにかのはずみでこうなってしまったんだけれど」彼女はなにかのはずみで何かが起こってしまったかのようにようやく言葉を継いだ。
「うん」なにかのはずみが何なのかはわからなかったし、だから何なのかということもわからなかった。
「披露宴に出てくれる?」
「誰の」
「私の」
「君の」
「そう」
「ようやく僕の披露宴デビューがやってきたわけだ」
「そう。披露宴デビュー」
「芸人待機じゃなくて、招待客としてのデビューだ」
「芸はしなくてもいいから」
「えっ」
「普通の人たちを集めるから」
「そう言われると芸人魂に火がつくよ」
「じゃあ、芸はするな」
「まあ、せっかくの招待客デビューだからね」
「そう。招待客として来てほしいの」
「わかったよ。おとなしく招待客を満喫するよ」
「よかった」
「ぱりっとしたスーツを着て、ご祝儀を持って、記帳して、料理を食べてお酒を飲むよ」
「正しい招待客ね」
「正しい招待客をやっておかなければ、もうないかもしれないからね」
「ご祝儀はとらないの」
「勝手に持っていくよ。記帳だって印刷して作っちゃうんだ」
「まあくれるものはもらうけれど」彼女は笑いながら言った。
「正しい招待客はご祝儀を渡すんだ。記帳もする」
「妙な几帳面さは10年前から変わらないね」
「これからも変わらないよ」僕は笑いながら言った。「結婚死ね死ね団は僕が守り続けるよ」これから君がいなくなっても僕は変わらない。
「べつに入っていたわけじゃないけれど」
「まあ結果的に入っていたわけだし、なにかのはずみで出て行くわけだ」
「なにかのはずみでね」
「新規入団選手をドラフトするよ」
「しなくていいって」
「副会長の座は空けておくから」
「じゃあドラフトして」
「そうするよ」僕はグラスに残ったビールを飲み干した。相変わらず狭い店内にはたくさんの言葉が溢れていた。世界はたくさんの独立した意味でできている。僕にわかるかどうかとは無関係に。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」彼女はグラスに残ったビールを飲み干した。
「帰りましょう」僕は傘をふたつ取り、ひとつを彼女に渡した。
外に出ると雨は音もなくアスファルトを濡らしている。僕は彼女がタクシーを拾うまで傘を差して彼女の隣に立っている。そして彼女を乗せたタクシーが見えなくなるまで傘を差してひとりで立っている。突然強い風がアスファルトをなめるように僕を吹き上げる。僕の傘はどこかへと飛んでいく。ドラフトなんかしないよ。僕は歩き出す。これから君がいなくなっても僕は変わらない。僕は歩きつづける。
おめでとう。心からおめでとう。

追記:夢を見た。僕はどこかの駅にいた。どこにいたのかは忘れた。電車が入ってきた。中の人たちは全員降りた。どうやらその駅は路線の果てにあるようだった。僕は電車に乗り椅子に座った。ひとつ左に誰かが座り、タバコを吸い始めた。僕はやや考えた後、彼の目の前に立ち注意を始めた。彼は制服を着ていて、多分中学生だった。彼は僕が真正面から彼のタバコを注意したことで僕のことを気に入ったようだった。電車はどこかへたどり着き、僕は電車を降りた。すると僕は僕が実際に通った中学校にいた。気が付くと僕は中学校の制服を着ていて、たくさんの生徒の中にいた。多分平日で、生徒達は普通にわらわらと校内にいた。僕は正門に続く正面玄関から中庭に出て、タバコに火をつけた。それを不思議に思わなかったから、僕は制服を着ていたけれどたぶん中身は現在に近いぐらいの年齢だったのだろう。すぐにここが中学校であることを思い出し、僕はタバコを右手に隠して人のいない校舎の裏手に回ろうとした。校舎の裏手に回るには正門のすぐ脇を抜けなければならなかった。僕は何故かネコのように四足で歩いていた。
正門の近くまで歩くと、正門をやや広く取り囲むように人だかりがあった。僕は四足で歩いて人だかりの最前列へ出た。裏手に回るために。すると正門の外側に何人かの先生たちがいて、何かを取り囲んでいた。先生達の真ん中には僕の実際の1年生時代に担任だった先生(女性)が座り込んで何かを手にとりながら叫んでいた。
「みんな何をしているのよ! 取り囲んでいないで誰か手を貸して!」
僕は四足を止めて先生を見た。先生の手は血に染まっていた。よく見ると先生の回りが一面、血に染まっているようだった。そして先生が手に持っているのは、ちぎれた誰かの腕のようだった。座り込んで叫んでいる先生の目の前には、胴体ぐらいの黒いかたまりが横たわっていた。僕はあんなに飛び散っていてはもうそれは助からないだろうと思った。しかし先生を助けようと思い、四足で先生の所へ歩き出した。突然足が重くなり、一歩進むのに長い時間がかかった。先生のところへ近づくほど抵抗力は強くなり、僕は一歩を進めるのにとても力を使った。何かが僕をそこへ近づけないようにしているようだった。先生は飛び散っているものを掬い集めながらずっと叫んでいた。僕は先生のところへたどり着こうと必死に手足をゆっくりとすすめた。
というところで目が覚めた。何を表しているのかは分からない。

10年。長いような気もするし、昨日に全ての出来事が起きたような気もする。僕はキリヤと同じように、情況を動かさないようにそっと立ち尽くしつづけた。でもやはり情況は僕の努力とは無関係に、とどまるときはとどまるし動くときは動いてゆく。僕の世界では彼女はどこにも分類されない場所にいたから、たぶん彼女と接していた僕はどこにも分類されない別の人格だっただろう。もし夢の中で見たあれがその別人格だったとしたら、僕の一部はばらばらになって死んだ。そしてそれを僕の主たる人格が眺めているという構図になる。不思議なことでもないのかもしれないけれど、主たる人格にはまったく悲しみはない。まあ一応こう書いて締めることにしよう。
さらば青春の光